2.5周年記念ショートストーリー

俺達の世界は終っていた。

2015年 混沌の7月

作/森田直樹(RED)


※このショートストーリーは「俺達の世界わ終っている。」の本編13章までをプレイしてから読まないと意味が分からない内容になっています。
※また、本編13章までをプレイしていても意味が分からない可能性もありますが、それは仕様となっています。



「――私の名は結城七罪。
 七つの罪を背負いし暗黒の絵師」

 己の心を奮い立たせるように声に出して呟く。
 それは私の魂をより強固なものにする闇の呪言。
 この言霊を口にすることで私の内に眠る闇の力が解放され、あらゆる敵意、厄災を退ける暗黒の瘴気がこの身を包み込み守ってくれる。
 ――はずだった。
 だが、自分の口から漏れ出た声は、かすれ、悲しいほどに弱々しく震えていた。
 いや震えているのは声だけではない。
 身体の震えも止まらない。
 照りつける真夏の日差しの下だというのに小刻みに震える身体を両腕で抱きかかえる。
 しっかりしろ、私。
 油断すると圧倒的な波動に私は飲み込まれそうになる。
「まさか、これ程とは……」
 驚愕の呟きが自然と口から漏れていた。
 恐れ……いや、これは畏れだ。
 この私が畏れている。
 だが、それも無理のない話なのだ。
 私程度の小者があのお方に相見えるなどという、身の程をわきまえぬ行為が本当に許されるのだろうか?
 何度目になるか分からない自問を繰り返す。
 答えは出ない。
 だが、恐らくこの場所に私自身が立っているという事実が答えなのだろう。
 そう、この場所に私は立っている。
 自らの意思で。
 目の前の扉を見つめ、半透明の磨り硝子に貼られた文字をもう一度読む。

『株式会社ジャッジメントセブン』

 確かにそう書かれていた。
 東京は浅草の一角にあるゲーム開発会社、ジャッジメントセブン。
 此処こそがあのお方の活動の拠点。
 いや、居城というべきか。
 その表現こそがあのお方には相応しいだろう。
 あのお方――憧れのクリエーターであり、心の師であり、絵描きを目指す私にとって転機と天啓を与えてくれた恩人とも言うべきあのお方。
 その名は、斑鳩・F・スバルスカイ。
 高貴なる紫炎の王。
 ここに彼がいる。
 ……はずなのだ。
 たぶん。
 もう一度、目の前の建物を見やる。
 少しだけ自信がなくなってきた。
 何故なら、それはあまりに普通のビルだったから。
 斑鳩様が活動の拠点とする場所なのだから、もっとこうゴシック調の古城風とか、大正浪漫の漂う古びた洋館とか、あるいは打ちっ放しのコンクリート造りで人間世界とは隔絶したような異質な建物を想像していたのだけれど……
 思いの外、普通のビルでいささか拍子抜けした、というのが事実だ。
 普通というか、どちらかと言えば古くて見すぼらしい貧相な外観であることは否めない。
 古城風でも古びた洋館でもなく、ただ単に古いビルだった。
 正直に言うと少し落胆している。
 期待していたものとあまりに違いすぎたから。
 いや! でも!
 きっとこれは世を欺くための仮の姿に違いない。
 あるいは、幻視の秘術によって街中に溶け込むように巧妙にカモフラージュされていると考える方が自然だろう。
 ……いや。
 まったく自然ではないけれど……でも、そう思いたい。
 だって……そうでなければあまりにもイメージと違い過ぎるから。
 なんというか、普通にショックだった。
 はあ。
 と、ため息ひとつ。
 イメージと違うといえば、私はもう一つの予想外な現実に直面していた。
 その現実というのは、ジャッジメントセブンのビルの向かいにある建物だ。
 あれは……その、たぶん、アレなのだろうな。
 うん。アレは、きっとアレだ。どう見てもアレ。
 見れば見るほどアレにしか見えない。
 派手派手しいピンクの看板に『休憩』『宿泊』といった文字が見えることからも間違いはない。
『宿泊』と書かれている以上、これは宿泊施設なのだろう。
 そこまではいい。
 でも、一般的な宿泊施設に普通は『休憩』というサービスは存在しないはずだ。
 そしてこの場合の休憩が、言葉通りに休憩を意味していると考えるほど私も愚かではない。
 この場合の休憩とは、絶対に休憩しない!
 それは断言できる。
 ……それにしても、初めて見た。
 見てしまった。
 その衝撃はジャッジメントセブンのビルを見つけたよりも大きかった。
 ダメだ。そっちを見てはいけない。
 飲み込まれる。
 噂には聞いたことがあったが、このような施設が実在するとは……東京は実に恐ろしい。
 しかも割と普通に、こうして街中に存在していることに驚かされる。
 こういう物は、もっと人里離れた山奥とか、人目につかない郊外にあるのだと思っていたから。
 チラリ。
 住宅街の一角に堂々とそびえ立つアレをもう一度見やる。
 恐ろしいほどの存在感を放っていた。
 その入口の方では、中年の脂ぎった親父と、ケバケバしい髪色で女子高生風の制服を着た明らかに20歳オーバーの女が入口に吸い込まれて行く所だ。
 入り際に親父の方が、こちらを意味ありげに見ていた。
 まるで舐め回すような視線で私と連れの女を見比べている。
 本物の女子高生である私を見ている。
 ああ、確かに私は女子で高校生だ。悪いか?
 とは言っても今の私は制服を着ているわけではないから、一見して女子高生には見えないかもしれないが、その親父の横にいる女もまた、とてもではないが女子高生には見えなかった。
 親父の視線に気づいた女が私を睨みつけてくる。
 何というか、非常に気まずい。
 そして何よりも不愉快。
 呪い殺してやろうかしら?
 私の『呪殺の視線』が発動したら、貴様らごとき肉欲に溺れた下等な人間など瞬殺だ。
 この眼鏡を外す前にさっさと私の視界から消え去るがいい。
 と言うか、死ね。
 ……はあ。
 やはり帰ろう。
 さっきまでとは別の理由で、私の心は揺れていた。
 でもここで帰ったら、いったい何の為にここまで来たのかわからない。
 やはり帰るわけにはいかないのだ。
 ここにはあのお方がいるのだから。
 その為に、私はここまで来たのだから。
 憧れのクリエーターである、斑鳩様に会う為に。
 その目的を達成せずに撤退など……
 ポケットの中のパスケースを強く握りしめる。
 その中には私のお守りが入っている。
「……私に、勇気を」
 すがるようにつぶやく。
 でも。
 ……やっぱり。
 …………無理だ。
 怖い。
 怖すぎる。
 というか恥ずかしい。
 そもそも、知らない人に会うという時点でハードルが高すぎるのだ。
 思わず勢いだけで此処まで来てしまったけど、よく考えたら相手は私のことなんて知らない。
 まさに雲の上のクリエーターともいうべき存在。
 私のような世間知らずの素人の絵描き――しかも一介の高校生が訪ねてきて会えるはずもない。
 普通に考えたら門前払いだろう。
 身の程を知れ、とは正にこの事だ。
 そんな事は分かっていた。
 でも、だったら私は何故ここにいる?
 だめだ、思考がループしている。
 でも。
 言い訳をさせて貰えば、そもそもこの場所が見つかるとは思っていなかったのだ。
 ジャッジメントセブンの事務所が浅草にあるというのは、あのサイトを見て知っていた。
 あのサイト――『深紫帝国之黙示録』は私にとっての聖典。
 斑鳩様の活動の全てが記された、全人類が必見の神サイトだ。
 でも、いかに神サイトとはいえ、その所在地の詳細までは記載されていなかった。
 斑鳩様ほどのクリエーターであればそれは当然のことだろう。
 それでも浅草に来れば、なんとなく運命に導かれて辿り着ける……とは思っていたけど、実際に辿り着いた後のことまでは考えてなかった。
 炎天下の浅草の街を彷徨うこと五時間。
 人通りの多い観光地はなるべく避けて歩いた。
 別に私は観光に来たわけではないのだから。
 ――巡礼。
 そう、これは私にとって聖地巡礼の儀式なのだ。
 斑鳩様の住まうこの地を訪れ、同じ風景を見て、同じ空気を吸う。
 それだけでも十分だった。
 だが、思いの外に浅草の街は広く、そして道は複雑に入り組んでいて、最終的にはまるで人気のない路地裏に迷い込んでしまっていた。
 たぶんあのお方の仕掛けた闇の結界の影響だろう。
 そうでなければ、この私が迷子になどなるはずがない。
 更に携帯が電池切れになるはずもない。
 昨夜、深夜バスに乗る前にしっかりと充電してきたはずだったのに。
 不覚、としか言いようがない。
 これでは携帯で地図を見ることもできないではないか。
 もっとも私の愛用しているガラケーには地図アプリなど入っていないのだけど。
 なんにせよ、恐るべきは紫炎の王と言うべきか。
 途方にくれ、力尽き、もはやここまで……と己の魂の消滅を悟りかけた私の視界に飛び込んできたのが例のアレだった。
『休憩』という神からの啓示。
 それはきっとあのお方が迷える私に示してくれた救済の道標だったのかもしれない。
 ――ああ、ここが休息の地。そして約束の地。
 悠久の時を彷徨い、私はたどり着いたのだ。
 ジャッジメントセブンへと……
 というか、もう歩けないし本当に休憩したかった。
 だが、こんなところで座り込むわけにはいかない。
 正面にはジャッジメントセブンの入り口、背後にはアレの入り口。
「……フフフ。進むも地獄、引くも地獄ということか」
 所詮は血塗られた道。
 実際には右にも左にも路地は伸びているのを私は知っている。
 左に進めば、どうやら商店街へと通じているらしかった。
 とりあえずあの商店街まで離脱し、態勢を立て直そう。
 そう考えていた時だった――
「なんだい君、ウチになんか用かぁい?」
 突然背後から声をかけられて飛び上がりそうになる。
「は、はい……いえ、その……」
 恐る恐る振り返ると、そこに『変態』がいた。
 いや。
 人を見た目だけで決めつけるのは愚かだということは分かっている。
 だが見知らぬ人間というものは見た目が十割だ。
 そして、この目の前の男はどう見ても変態だった。
 なぜなら、だらしなく着崩したTシャツの前面に堂々と『変態』と書いてあったから。
 こんなにもわかりやすい変態はそうはいないだろう。
 ヨレヨレのジャージを履き、トイレのサンダルの様な物を突っかけて、ご丁寧に小脇には成人雑誌を剥き出しで抱えていた。
 昼間っから堂々と。それも3冊もだ。買いすぎだろう。
 とにかく、正に絵に描いたような不審者だった。
 これで変態でなければ、この世に変態という人種は存在しない事が証明されるだろう。
「……変態?」
「ああ、否定はしないよ」
 私の呟きに首肯する男。
 本人も否定するつもりはないらしい。
 なんと潔い変態だろう。
 だがまるで格好良くない。
 むしろ気持ち悪い。
「でも、よく俺が変態だって分かったねぇ?」
 男は変態に似つかわしい、だらしない笑みを口元に浮かべながら尋ねてきた。
「Tシャツにデカデカと書いてあるじゃない。こんな自己主張の激しい変態は初めて見たわ」
 相手は明らかに自分よりも年上の成人男性だったけど、何故だか敬語で話そうという気はまるで起きなかった。
 たぶん、変態だからだろう。
 変態相手に敬意を示せるほど私は出来た人間ではない。
「ああ、でもこれは変態じゃなくて、変熊って……あれ?」
 言われて見てみると、もともとTシャツに印刷されていたのは『変熊』という文字のようだ。
 そもそも変熊という二文字の意味も分からないのだが。
 その『熊』という字の下部にある四つの点――この部首の名称が『列火』というのは私の密かなお気に入りでもある――が、マジックか何かで描き足されて『心』の部首になっていた。
「なんだこれ? アサノの仕業だな……ま、いいか」
 勝手に納得すると変態は先程と同じ質問を投げつけてきた。
「で、君は誰なんだい? ウチに……ジャッジメントセブンに何か用なのかい?」
「ジャッジメントセブン……」
 変態の口から思わぬ言葉が飛び出してきた。
 信じがたい事だが、この変態はジャッジメントセブンの関係者らしい。
 ということはあのお方の下僕か何かだろうか?
 きっとそうに違いない。
 こんな変態さえも配下に置くとは、斑鳩様の懐の広さに驚嘆する。
 しかし、こうして関係者に遭遇したということは、それもまた運命なのかもしれない。
 こうなってしまってはもう後には引けない。
 覚悟を決める時が来たと言う事か……
 よし。
「わ、私の名は結城七罪。七つの罪を背負いし暗黒の絵師。
 紫炎の王、斑鳩様にこの力を認めてもらう為、ここに参上いたしました。お目通しを願いたい!」
 一気に言った。
 言ってしまった!
 若干声が裏返ってしまった気もするが、とにかく言ってしまったのだ。
 緊張で心臓の鼓動が早鐘を打つ。
 だが、これで運命の歯車が動き出した。
 ……はずだ。
 もう後戻りはできない。
「……なるほど。斑鳩様にねぇ」
 変態はしばらく逡巡するように視線を宙に彷徨わせてから言った。
「ところで、その斑鳩様ってのは誰だい?」
「……え?」
 予想外の言葉だった。
 斑鳩様を知らない……だと?
「あ、あの……ここはジャッジメントセブンよね?」
「いかにもここはジャッジメントセブンだが……」
「斑鳩様はジャッジメントセブンの中核を成す神クリエーターでしょ? 稀代の言霊使いで、神に祝福されし物語の紡ぎ手で、伝説の語り部。しかしてその正体は、緋と蒼の炎を操る紫炎の王……」
 ……なのだけど。
 もしかして、違うのか?
「紫炎の王? ……うーん、ああ、アレね」
「あ、アレ!?」
 斑鳩様をアレ呼ばわりとはなんと恐れ知らずな人間だろう?
 死ぬぞ。
 というか、呪われるぞ。この私に。
 私の殺意を込めた視線を物ともせずに、変態はいたってマイペースだった。
「絵師……って事は、君はイラストレーターか何かなのかい?」
 そんなどうでもいい質問を投げかけてくる。
「ええ。正確にはイラストレーター志望だけど。まだ高校生だし商業の経験もない只の素人よ」
 見栄を張っても仕方ないから正直に答えた。
「ふーん……なるほどねぇ。まだ高校生か。うん。じゃ、君、採用ね」
「は?」
「いやね、ちょうどイラストレーターのスタッフが欲しかったからさ。そっちからきてくれるなんて、うん、実にいいタイミングだよ。君はラッキーだねぇ」
「あ、あの。人の話を聞いていたのかしら? 私はただの素人の絵描きなのだけど……」
 そもそも私の絵を見てもいないだろうに。
 それなのに採用だなんて、この男、頭がおかしいのではないだろうか。
「ゲーム業界でイラストを描いてる奴なんて大抵は素人だよ」
「はぁ?」
 男は実に予想外のことを言った。
「別にイラストレーターになるのに免許や国家試験が必要なわけじゃないだろ? 大事なのは志ってやつさ。これはイラストだけじゃないけどね。シナリオにしたって、サウンドにしたって、プロと素人の間に何か大きな違いがあるわけじゃないんだよ。その違いと言えば、せいぜいプロであろうとする志くらいなもんじゃないのかなぁ」
 事もなげにそんなことを言う男の顔を、私はしげしげと見つめてしまった。
 プロと素人の間に違いなど無い?
 いや、そんなはずないだろう。
 それでは強い想いを持って絵を描いている者は、全員がプロになってしまうではないか。
「世の中ってのは『自称プロ』で溢れかえっているからねぇ。特にクリエイティブな現場では殊更さ」
 そんな事を言われてしまっては身も蓋もないだろう。
 まがりなりにも私はプロの絵描きを目指しているのだ。
「それに大事なのは何を描くか、だろう? 君はプロになりたいから絵を描くのかい?」
「そ、そんな訳じゃないけど……絵を描く以上、プロになりたいと思っているわ」
「だったら君はもう、プロフェッショナルさ」
 そう言って笑う男。
 その顔はさっきまでと同じ、変態的なにやけたものには違いなかったけれど、不思議と不愉快には感じなかった。
「おっと、こんなところで立ち話もなんだし、話なら中でしようじゃないか」
 変態はそう言って入口の扉を開けた。
「…………」
「どうした? 入らないのかい? 斑鳩様にイラストを見てもらうために来たんだろう?」
 変態が扉に手をかけたままこちらを振り返る。
「そ、それはそうだけど……」
 知らない男に誘われて、建物の中に入るというのがどうしても躊躇われてしまう。
 いくらジャッジメントセブンを名乗ったとはいえ、初めて会う見知らぬ男だ。
 しかも変態だ。
 東京は怖いところだと母に言われた。
 知らない人に声をかけられても無視しろと父にも言われた。
 この変態が、見た目通りの変態だとしたら身の危険を感じないわけでもない。
 これは自意識過剰なのかもしれないが、それでも怖いものは怖い。
 もちろん、私がそんなに魅力的な女だなんて思っていない。
 どちらかと言えば田舎臭い地味な小娘であることは自覚している。
 私を襲ってどうこうしようとする物好きな男がいるとは思えない。
 とはいえ、生物学的に言えば女である事に違いはない。
 目の前の変態は、変態を名乗る割にはまともな様にも見えるのは確かだ。
 とはいえ、初めて会ったばかりの名も知らない男のことをそこまで信用できるはずもない。
 そもそも自ら変態を自称する男を信用するなんて危険すぎる。
「なるほど。ずいぶんちゃんと躾けられているようだねぇ。うん、まぁ、結構」
 躊躇している私の内心を悟ったのか、男は気を悪くする風でもなく満足そうに頷いた。
 それから、入口のドアから奥に向かって、
「おおい、アサノ。いるんだろ? ちょっと出てきてくれないかー」
 大声で呼びかけた。
「おい、こら、アサノ! さっさと出てこないと、お前さんのスリーサイズをご近所さんに大声でお知らせしちゃうよー!」
「あぁ……何よ、人が気持ちよく昼寝してるってのに……」
 文句を言いながら入口から顔を出したのは、赤い髪を後頭部で無造作にまとめた女性だった。
 長身でモデルのようにスラリとしたスタイルをしていた。
 そして明らかに寝起きらしい不機嫌そうな顔をしている。
 ちなみに今は平日の午後三時過ぎだ。
 夏休み中の私と違って、一般的な社会人なら少なくとも昼寝をしている時間ではないだろう。
 それも職場で。
「昼寝なら上の仮眠室を使えばいいだろうに」
「えー、だってあそこってなんか臭いし、あんまり好きじゃないんだもん……って、だれ、その子?」
「ああ、知らない子だよ」
「へ、変態!! アンタついに女の子を攫ってきたの!? アンタはとんでもない変態だけど、そういうことだけはしないって信じてたのに!」
 女はいきなり変態を殴りつけた。
 問答無用で。
「むごふっ!」
 見ていて気持ちがいいくらいの右ストレートを顔面にくらい、変態がのけぞる。
「ちょ、ちょっと待て、アサノ! 俺は別にこの子を攫ってきたわけじゃないぞ。基地の玄関に立ってたから、声をかけて連れ込もうとしてるだけだ!」
「同じだ! この、変質者!」
 続いて赤毛女の左フックが変態の顎を捉える。
 何というか、爽快な光景だった。
 だが、このまま殴られ続けると、この変態が変死体になりかねない。
 別に名も知らない変態が1人、天に召されようとどうでもいいが、殺人事件の目撃者になるつもりはない。それに目撃者は消される運命にあるのだ。それは避けたい。
「あ、あの……?」
「アンタ! この男はアタシが処分して警察に突き出しておくから、今のうちに逃げなさい!」
「あ、いえ、別に何かされた訳じゃないから……」
「何かされてからじゃ手遅れでしょうが! いい、男ってのはみんな変態なのよ! 変質者なのよ! アンタみたいないかにも大人しそうな可愛い女の子なんて、いつだって狙われてんの! ちゃんと自覚しなさい!」
「か、可愛い……私が……?」
 目がおかしいのかこの女。
 可愛いかどうかで言えば、どう見てもそっちの方が魅力的な顔をしているだろう。
 それに背も高くて足も長いし。正直言って羨ましいくらいだ。
 それに惚れ惚れするくらいのパンチを持っているし。
「どう見たって可愛いじゃない。それに胸だって……アタシと、まぁ、そんなに変わんないくらい立派だし……とにかく、知らない男に声かけられてホイホイとついて行ったらダメよ! わかった!?」
「え、ええ……」
 女の迫力に気圧されて、思わず頷いてしまった。
「ちょ、ちょっと待つんだアサノ。この子は、ウチの客だよ、お客さん。そうだよな、えーっと……」
 玄関先に置いてある信楽焼のタヌキの影に隠れながら、変態が必死の目配せをこっちに投げかけてくる。
 ……はあ。
 仕方ない。
「結城七罪……よ」
「そ、そう。結城七罪くんだ! どうだ、これで知らない子じゃなくなったぞ。名前を知ってる子だ!」
 ドヤ顔を見せる変態。
「ちょっと、アンタ。本当にウチに用があるわけ?」
「え、ええ……まぁ、そうね」
「ふうん……お客ねぇ。ならまぁいいわ」
 そう言うと女は一気に興味を無くした様に奥へと引っ込んでしまった。
 特にさんざん殴りつけた変態に対して詫びるつもりもないらしい。
「……と言うことで、ここにはあんなにも凶暴なお姉さんがいるから、俺が君を手篭めにしようなんて不可能だからさ。まぁ、安心してくれていいと思うよ」
「え、ええ……」
 確かにあんな戦闘力を持つ女性がいるならば、私の身の安全は保障されるだろう。
 この男の身の安全は保障されない気もするが、それは私には関係ないことだし、まぁいいか。
「わかったわ。せっかくだから入らせてもらうわ」
 そもそもその為に来たのだから。
 覚悟を決めよう。
「あ、うちは一応土足厳禁だからね。その辺にあるスリッパを適当に使ってよ」
 なるほど、土足厳禁なのか。
 それもまた思っていたイメージと随分と違う。
 斑鳩様がスリッパに履き替える?
 とてもではないが想像不可能だった。

† † † † † † †


 変態の後について入ったのは玄関のすぐ脇にある、物置のような、リビングのような、ダイニングのような割と広い部屋だった。
 奥に作り付けのキッチンがあり、その手前に不揃いのソファとローテーブルが置かれたスペースがあった。
 会社の中というよりは、誰かの家の居間といった雰囲気で、ごちゃごちゃとしているが不思議と居心地は悪そうではなかった。
 その部屋のソファで横になっているのは、先程、玄関先で変態を殴りつけたアサノと呼ばれた女性だった。
「おいおい、アサノ。せっかくのお客さんなんだから、そんなところで寝てるんじゃないよ」
「ああ、はいはい、いらっしゃいませー。で、結局その子はなんなの?」
 アサノは起き上がりもせずに尋ねてきた。
「喜べ、アサノ。彼女は我がジャッジメントセブンのイラストレーター候補、第一号だ!」
「イラストレーター? ってことはアンタ絵描きなの?」
「え、ええ……まぁ一応は。あの、あなたは?」
「アタシ? 早瀬アサノ。ここのサウンド担当よ、一応ね」
 サウンド担当ということは作曲者か。
 どうやら用心棒の類ではないらしい。
「っていうか、尾張、アンタさー。お客なんだからお茶くらい出してやんなさいよね。あとついでにアタシにもー」
「尾張……?」
「ああ、そういえばまだ名乗ってなかったな。俺は尾張世界っていうんだ」
 奥の冷蔵庫から麦茶の入った容器を取り出しながら変態が答える。
「尾張世界? あら、変態以外にも名前があったのね」
 尾張世界か。
 明らかに偽名だろうけど、ちょっとだけカッコいい響きな気もする。
 あくまでちょっとだけだ。
 斑鳩様には敵わない。
「それにしたって、イラストレーターを採用するなんて、アタシ聞いてないんだけどー」
 アサノはソファから起き上がると、尾張が用意したグラスに麦茶を注ぎ勝手に飲み始めた。
「ウチもゲーム開発会社だからねぇ、絵描きがいないことにはノベルゲームもまともに作れないじゃないか。というか、絵がないとただのノベルになってしまうだろ?」
「それはまぁ、そうだけどさー。ゲームを作るって言ったって、もともと二人しかいなかったじゃん、ここってばさ。ジャッジメントセブンなんて名乗ってるくせに。アタシ、騙されたと思ってたから。っていうか、今でもアンタ達がゲームを作る気があるなんて信じてないんですけど」
「はっは。まぁ、勢いだけで立ち上げた開発会社だからねぇ」
 尾張はまるで悪びれた風でもない。
 どうやら、この尾張と斑鳩様、そしてアサノの三人しかスタッフはいないらしい。
 確かにそれでジャッジメントセブンを名乗るというのも微妙な話だ。
「まぁ、最終的には7人くらいになればいいかなー、と思ってるからね。あと、なんかカッコイイだろ? セブンって響きに浪漫を感じないか?」
「別にー」
 アサノは興味なさそうに再びソファに横になってしまう。
 なんていうか、自由な人だった。
「さて、結城七罪くんだったね? 確か暗黒の絵師、とか言ってたけど……」
 尾張が席に着き、改めてこちらを見てくる。
「ええ」
 鞄からファイルを取り出してテーブルに広げる。
 話すのは苦手だし、絵を見せた方が早いだろう。
「これは?」
「斑鳩様のホームページに書かれていた新作『凶月(マガツキ)』の設定を読んで、私なりにイメージを膨らませて描いたスケッチよ。こっちがヒロインの緋美姫で、これが武器の大煉獄鎌、エクサ・サイズ……」
 ファイルをめくりながら説明する。
 本当は真っ先に斑鳩様に見ていただきたかったが、流れ上仕方ないだろう。
 この変態も一応はジャッジメントセブンの一員らしいし、正直にいえばいきなり斑鳩様に絵を見てもらうほどの勇気がなかった。
 つゆ払いとしてはこの変態はちょうど良いかもしれない。
「まがつき……? なんだいそれ」
 変態が馬鹿みたいな顔でこっちを見る。
「え? ジャッジメントセブンが開発中のノベルゲームよね?」
 この男、本当にジャッジメントセブンの人間なのか?
 自分たちが開発中のゲームのタイトルを知らないなんて。
「アサノ、お前さんは知ってるかい?」
「はあ? アンタが知らないものをアタシが知ってるわけないじゃない」
 驚いたことに、アサノまで凶月を知らないという。
「でも、ここに書いてあるじゃない」
 私の聖典とも言える斑鳩様のホームページのプリントアウトを取り出すと、変態の鼻先に突きつけてやった。
 そこにはしっかりと『凶月』の文字。
「あ、ああ。コレね。なんだ、キョウゲツのことか」
「キョウゲツ? フフ。あなた本当にここのスタッフなの? これは『凶』に『月』と書いてマガツキと読むのだけど? 凶々しく闇夜に浮かび、狂気で凶器を照らす赤き慟哭の月――と書いて凶月」
 それくらい常識だろうに。
「へぇ、そうだったのかい? でも、うーん……これでマガツキとは読めないだろう? 無理がないかい?」
「読むのではないわ。感じるのよ。闇のフィーリングで」
「ほほう……感じるのかい? 感じちゃうのかい?」
「それ以上、変態的な発言をすればこの携帯で110番するわよ」
 その前に、ソファで寝ているアサノという女に殺られるかもしれないけど。
 どうやらこの男には学習能力というものが無いらしい。
「へぇ、なんだアレって『メゲツ』って読むんじゃなかったんだ。なんて読んでいいか分からないから、とりあえずメゲツって読んでたんだけど、マガツキだったんだ。へぇ」
 アサノが驚いたような声を上げる。
 メゲツ?
 それって『凶』という文字の真ん中部分だけをカタカナの『メ』と読んだという事なのだろうか?
 その発想はなんていうか、ひどく残念な感じだった。
 というか、三人しかいないスタッフが、それぞれタイトルの読み方さえ理解していないなんて、そんな事があり得るのだろうか?
 もちろん斑鳩様の重厚で濃厚な世界観は難解ではあるが、しかしタイトルだぞ。
 この程度のスタッフしかいないとは、斑鳩様はさぞかし苦労している事だろう。
 私が斑鳩様の苦悩に思いを馳せていると、
「うわぁ、真っ黒け。アンタ、見た目は大人しそうなのに、描く絵は随分と重々しいのね」
 いつのまにかアサノが起き上がりファイルを覗き込んでいた。
「っていうか、これってアンタが一人で描いたの? まだ高校生でしょ? ちょっとヤバくない? 心病んでない? 生きてて楽しい? なんか悩みとかあるなら親とか友達に相談した方がいいよ」
「ええ、愉快よ。ご心配なく」
 というか大きなお世話だ。
 友達なんて今はいないし。
「うーん……でも、このテイストだとサウンド的にはもっと重厚感がある雰囲気にしないと合わなそうね……へぇ、なるほどねぇ。うん、まぁ、アイツの訳のわかんないシナリオを読むよりも、こうしてイラストがある方がイメージが一気に膨らんで助かるなー……って、これはエグいわ。引くわ」
「それは主人公の月喪が、第8位の剣聖と刺し違えるシーンよ。とは言っても、これは私の想像で付け足したシーンだけど」
「へえ……主人公ってツクモって名前なんだ。なんか難しい漢字ばっかりで、どれが名前で、どれが技名なのかもさっぱり分かんないんだけどさー」
 凶月をメゲツと読むくらいの残念な感性ではそれも仕方ないだろう。
「あの方の作品は、常人に理解することは無理でしょうからね」
「いや、一緒に作ってるスタッフにも理解できないってヤバくない?」
「そうかしら? 私はある程度は理解できたつもりだけど」
「ってことはアンタも相当な中二病ってことか……なんか、残念ね」
 自分よりも残念そうな相手に、哀れむような視線を向けられてしまう。
 実に不愉快だ。
「……それで、どうかしら?」
 黙ってファイルをめくっていた尾張に尋ねる。
「正直言って、俺には絵のことはよく分からないよ。なんせプログラマーだからさ」
「え? あなたプログラマーなの?」
 プログラマーってもっと知的で、理性的な人が担当しているのだと思っていた。
 目の前にいる男はそれらとはあまりにかけ離れた雰囲気だったから意外だった。
 そもそもゲーム開発会社のスタッフにも見えないのだけど。
「ああ。だから、これがよく描けているかどうかなんて俺には判断できないけど、でも、よく描いてくれたな、とは思うよ」
「よく描いてくれた……?」
 それは想定外の評価だった。
「だって君は誰にも頼まれていないのにこれを描いたのだろう? ネットで公開されていた凶月の断片的な設定を見て、ただそれだけの情報からこれだけの物を描いた。別に金になる訳でもないのに、それでも描いてくれた。その事に俺はとても関心があるねぇ」
「ホントよね。アタシだったらお金を貰っても、こんな訳わかんない設定で曲なんて作りたくないのにさー。あんた、マジで変わってるわ。なんで描けんの?」
「え? それは、ただ……描きたかったから、だけど」
「ほう」
「自分の琴線に触れる設定を目にして、それをどうしても自分の手で形にして表現したかった。それ以外に理由なんてないもの」
 確かに斑鳩様の作る世界観に憧れは抱いていた。
 難解で意味不明な単語や用語の羅列。
 その全てを理解できたとは思わない。
 ただ、圧倒的な文字で埋め尽くされた、荒々しい程のクリエイティブな魂に惹かれ、そして憧れた。
 そんな風に、自分も何か表現してみたい。
 そう思った。
 ただ、それだけだ。
「うん。やっぱり君は俺達側の人間なんだと思うよ」
「貴方側? やめてくれないかしら。私は貴方みたいな変態ではないのだけど」
「はっはっは。人間なんてどこかでは変態なのさ。そしてこのファイルを見る限り、君もなかなかどうして、大した変態だと思うけどねぇ」
「…………」
 それはもしかしたら尾張流の賛辞の言葉なのかもしれない。
 でも、変態が褒め言葉になるのは変態の世界だけだろう。
「だから採用さ。君の意思はともかくとして、俺はやはりそう判断するんだけど、不服かな?」
「私を採用するって……そもそも、そんな権限が貴方にあるの?」
「そりゃ、まあ……あるんじゃないのかい? だって俺、ここの社長だしさ」
「え……?」
 この男が社長? ジャッジメントセブンの?
 とてもそんな風には見えない。
 だって、どう見ても只の変態ではないか。
「まぁ、社長って言ってもジャンケンで決めただけなんだけどさぁ」
 そう言って笑う。
 どこまで本気で言っているのか計りかねる表情だった。
 アサノの方を見ると、
「残念ながら、この尾張が社長なのよねー。ま、変態なのは間違いないけど」
 そう言って肩をすくめていた。
 ということは、この女は社長にお茶を入れさせたのか、さっき。
 何というか、社会人としてとても残念に思えた。
「ああ! でもさー!」
 今までソファの上でダラけていたアサノが急に弾かれたように立ち上がる。
「なんか、アンタの絵を見ていたらなんかすっごくイメージが湧いてきたんだけど。ちょっとアタシ、上に行って曲作ってくるわ!」
「ほほう……アサノが自分から曲を作ると言い出すなんて、こりゃ奇跡だな」
「えっと、七罪とか言ったっけ? アンタさ、描く絵はちょっと気味が悪いけど、でもアタシはアンタの絵、ちょっと凄いって思っちゃったよ。その絵に音を付けてみたいって思うくらいにはね!」
 私の絵に音を付けてみたい?
 そんな事を言われたのはもちろん生まれて初めてだ。
「だから、サンキューね」
 そう言い残してアサノが部屋を出て行く。
「こりゃ驚いた。あのアサノが誰かを褒めるなんて初めて見たよ。君が凶月の設定を見てイラストを描きたくなったように、アサノは君のイラストを見て曲を作りたくなったって事か……うん、こいつはいい。やはり俺の目に狂いはなかったようだ」
 尾張は一人で満足そうに頷いている。
「あの……一つ聞きたいのだけど、貴方はどうして私の絵を見てくれる気になったの?」
「だって君、いわゆる持ち込みってやつだろ? ウチは別に大々的にスタッフを募集しているわけでもないから、当然、門前払いをされる可能性だってある。それなのにここまで来たってことはそれなりの強い意志と覚悟があるからに違いない。それにほら、その大荷物を見れば、近所から来たわけでもなさそうだ。その勇気……というか無謀さは最近の若い子にしては珍しいじゃないか」
 勇気。そして無謀。
 まぁ、確かにそうかもしれない。
 ただ単に世間知らずなだけかもしれないが。
「でも、私には経験も実力も不足しているから……ここに来たのだってただの勢いだし」
「大切なのは志って言ったろ? それを感じられる相手なら、俺にとってそいつはプロフェッショナルなのさ……とは言っても君はまだ高校生のようだし、この辺に住んでるわけでもないのだろう?」
「ええ。実家は広島よ」
「そりゃまた随分と遠いな……ってまさか、斑鳩様に謁見するためだけに広島から上京してきたって訳じゃないよな?」
「ええ。もちろん。気を悪くしたなら申し訳ないけど、そんなことのためだけにわざわざ東京に来れる訳ないじゃない。夏休みを利用して専門学校の見学と、クリエーターズキャンパスに参加するついでよ」
「クリエーターズキャンパス? なんだいそれ?」
「要するに、クリエーター志望の若者が集まっての交流会ね。2泊3日の合宿形式で、そこそこ有名な絵師も来るみたいだし、自分の作品をプロのイラストレーターや編集者に見てもらって意見やアドバイスをもらえたり、運が良ければ商業デビューという可能性もあるって話だから」
「ははあん、オフ会みたいなもんかい? でも君、そういうのに参加するタイプには見えないんだけどねぇ。なんというかその、団体行動って苦手そうじゃないか?」
「ええ、参加する前から反吐を吐きそうな気分よ」
「だったらなんでまた……?」
「それは……だって、プロになりたいから」
「プロにねぇ」
「私は絵を描く以上、プロになりたい。趣味や自己満足の為の絵を描いて、クリエーター気取りでいるだけの人間には絶対になりたくない。そう誓ったから……」
 そう。あの時に、そう誓ったのだ。
 親友だと思っていた彼女に裏切られたあの時に。
 絶対に見返してやる。
 プロになって見返してやる。
 私を裏切ったことを後悔させてやる。
 そう誓った……のだから。
 ……………………。
 私の内で黒い炎が燻り始めていた。
 負の感情が私の心を侵食し始め、どんどん広がって行くのが分かる。
 これは良くない兆候。
 私の心が絶望に囚われ、漆黒の闇に飲み込まれてしまう予兆だった。
 それは何の前触れもなく突然に訪れ、私の心を閉ざし、世俗から隔絶してしまう。
 世界の全てがひどく無意味に感じられ、あらゆる音という音が騒音になり、私の心を締め付ける。
 突然、一人になりたくなる。
 誰もいない世界に逃げたくなる。
 いつものことだ。
 よくあること。
 じっと耐えていれば、すぐに元に戻る。
 内なる闇に耐えようと抗っていた私を救ったのは尾張の声だった。
「……おっと、お待ちかねの人が現れたみたいだねぇ」
 その声で私の心が現実に戻される。
「え……!?」
 その瞬間、まるで影が射したかのように私の周囲が暗くなった気がした。
 いや、それは決して気のせいでは無い。
 私の後に何者かが立っている。
 背後から巨大な質量を持つ『気配』を感じる。
 恐らく斑鳩様の放つ暗黒の波動。
 姿を見ていないというのに、圧倒的な存在感だった。
「……何だ世界よ、客人か?」
 すぐ後から低い男の声が聞こえてくる。
 い、斑鳩様だ!
 これ、絶対に斑鳩様!
 斑鳩様がそこにいる!
 というか喋っている。
 ヤバイ! マズイ! スゴイ!
 斑鳩様の生声を聞いてしまった! 思った通り低く渋い感じだ。
 ふ、振り向きたい。
 でも、振り向けない。
 圧倒的なオーラが私を萎縮させる。
 怖い……というか恥ずかしい。
 ああ! こんな事なら、面倒臭がらずにちゃんとお化粧を覚えるべきだった。
 そうすればこんな田舎臭い私でも、もう少しはまともに見えるかもしれないのに。
 私は何という愚か者なのだ。
 ど、ど、ど、どうしよう?
 振り向いたらあのお方がいる。
 斑鳩様がいるのだ。
 見たい。
 その姿を見たい。
 でも、恥ずかしい。
 見られたくない。
 心臓の鼓動が加速度的に早くなり、気を失いそうになる。
 う、うう……
 緊張で吐きそうになってきた。
「ああ、この子はお前さんのファンだよ。イラストレーター志望の、結城七罪くんだ」
 ちょっと変態!
 勝手に紹介するな!
 わ、私ごときが軽々しくファンだなんて、そんなの斑鳩様に失礼ではないか!
「ホホウ、我を崇拝する者だと……? それは実に興味深い」
 きょ、興味深いって言われたし!
 斑鳩様に!
 ヤバイ、心臓が止まる!
 というか、もう死ぬかもしれない……
 いや、どうせ死ぬなら、せめてその前に斑鳩様のお姿を一目でも見てから死にたい。
 私は覚悟を決めた。
「それでは紹介しよう! 彼こそがジャッジメントセブンのメインプランナーでありシナリオライターでもある紫炎の王、斑鳩・F・スバルスカイだ!」
 尾張が私の背後を指差す。
 振り返るとそこに巨大な質量を持つ『何か』が存在していた。
 それが人間だと認識するまでに9秒程要した事だろう。
「クックック……我輩をその名で呼ぶとは。世界よ、どうやら聖戦の時が訪れたということであるな?」
 巨大な肉塊が喋った。
「な……」
 な、なんだと……この肉、喋るぞ。
 私は戦慄した。
 何が起こっているのか理解が追いつかない。
 だが、私の思考の限界を超えた何かが起こっているのは確かだ。
 目の前にあるのは巨大な肉の塊だけで、斑鳩様の姿はない。
 見えない。
 ま、まさか、斑鳩様の姿は常人には見えないというのか……?
「あ、あの。斑鳩様は……どこ?」
「であるから我輩はここなりよ、お嬢さん」
 肉塊が気味の悪いポーズを決めた。
 まるで斑鳩様の様な声で。
「我こそは、斑鳩・F・スバルスカイ……紫炎の王なり」
 は?
「あの、斑鳩様は?」
 尾張の方を振り返る。
「それ」
 尾張は肉塊を指差す。
「どれ?」
「だからそれ」
 尾張の指差す先には、謎の肉の塊しか存在しない。
 だが、尾張はそれを斑鳩様だという。
「ちょっと待ちなさい! 斑鳩様がこんな醜悪な肉の塊のはずがないでしょ!」
「ブギョフエ! しゅ、しゅ、醜悪ですと……」
 絶叫する肉塊は無視する。
「見なさい! これが斑鳩様の御姿よ!」
 私は上着のポケットからパスケースを取り出すと開いて尾張の鼻先に突きつけてやった。
 そこに入っているのは、ネットからダウンロードしてプリントアウトした斑鳩様の御姿。
 私のお守りとも言うべきお宝写真だ。
 薄暗い部屋に斜めに差し込む光の中で、黒いレザー製のロングコートを羽織った細身の男性がゴシック調の椅子に座って微笑んでいる。
 長い銀髪で顔の半分が隠れているが、その鋭利な刃物の様に尖った顎、世界の全てを見通すかの様な緋と蒼のオッドアイは耽美で優美で幻想的な表情をたたえている。
 手前に差し出された右手の上には紫色の炎が揺らめいており、その背後では白と黒の羽根が宙を舞う。
 これこそが、斑鳩・F・スバルスカイ。
 決して肉の塊などではない!
 どうだ、思い知ったか!
「お、こいつは俺が学生の頃にイルカに頼まれて作った合成写真じゃないか。いや、懐かしいなぁ」
「フフフ、あの時は世話になったな、世界」
 は?
 ご、合成写真?
 という事は偽物!?
 というか、何をどう合成すれば目の前の肉の塊が、この美しい斑鳩様の姿になると言うのだ!?
 どんな合成事故の産物なのよ!?
「ちょ、ちょっと待って……それじゃ、この斑鳩様はここにはいないというの?」
「うん。ここにいるのはこのイルカ様だけだねぇ」
「正しくは、イルカ2号である! 斑鳩は魂の名ではあるがな。フィショエェェェェ!」
 イルカ2号と名乗った肉の塊が、目障りなポーズで、耳障りな奇声を発した。
 こ、これが斑鳩様の正体、真の姿……だと。
 そんな、バカな。
「はあああああああああああああ!!!!
 それじゃ、斑鳩様の正体はただの中二病の肉ブタ!? そういうことなの!?」
「は、はい……そうです」
 斑鳩様、改めイルカ2号が小刻みに激しく頷く。
 嘘だ……
 嘘だ!
 嘘だ!!
 嘘だ!!!
 嘘だ!!!!
「み、認めない……認めないわ」
 私の中で何かが音を立てて崩れていく。
 信じていたもの全てが壊れていく。
 世界が闇に閉ざされていく。
「の……呪われるがいい!
 呪われろ! 呪われろ!! 呪われろ!!!
 お前たち、全員呪われろ!
 何が斑鳩・F・スバルスカイだ!
 何がジャッジメントセブンだ! 
 何が凶月だ!
 何がゲームクリエーターだ!
 全部、全部、全部、全部、全部まとめて呪われるがいい!!!!」
 力の限り呪いの言葉を叩きつけて、私はジャッジメントセブンの事務所を飛び出した。
 こうして私の信仰は……死んだのだ。
 というか、呪い殺した。

† † † † † † †


 それから後の事はあまりよく覚えていない。
 ジャッジメントセブンの事務所を飛び出してとにかく浅草の街を走った。
 地下鉄に乗って秋葉原に移動したのはなんとなく覚えている。
 そこがクリエーターズキャンパスの集合地点だったから。
 初めて訪れた東京で、複雑に入り組む地下鉄を間違わずに乗れたのは奇跡だったのかもしれない。
 上京する前は密かに楽しみにしていた秋葉原の街だったけれど、着いてみればただ人が多いだけで期待していた程の高揚感は得られなかった。
 秋葉原駅の改札でクリエーターズキャンパスの参加者と合流して、彼らに着いて歩いた。
 ただ、流される様に知らない誰かの後をついて歩いていた。
 私はいったい何をしているのだろう。
 何をしにここにきたのだろう。
 全てがどうでも良くなっていた。
 とにかく、ジャッジメントセブンの事も、斑鳩の事も忘れよう。
 思い出したくもない最悪の黒歴史だ。
 せめて、このクリエーターズキャンパスでプロになるきっかけか手応えを掴めればいい。
 そもそも、その為に東京に来たのだから。

 クリエーターズキャンパスの会場は秋葉原の外れにあるビジネスホテルに毛が生えた程度の場所だった。
 とは言っても、ビジネスホテルという場所に泊まるのも初めてなのだから、これが立派なのかどうか知る由もないのだが、少なくとも事前に振り込んだ宿泊料金と釣り合いが取れているとは思えない。
 中学生の頃の修学旅行で泊まった奈良のホテル旅館になんとなく雰囲気が似ていた。
 つまり、古くて、くたびれた感じだ。
 でも、まぁ、こんなものか。
 遊びにきたわけでも無いのだから、宿泊場所なんてどうでもいい。
 参加者は私を入れても6人しかいなかった。
 明日以降、合流するメンバーもいるらしいが今日のところはこれで全員らしい。
 大人数よりは助かるが、拍子抜けしたのも事実だ。
 イベントの主催者は『ギリィ』というペンネームで商業でも活動しているというイラストレーターの男だった。
 メールで何度かやり取りをしたが、会うのはもちろん初めてだ。
 ギリィについては、それまで存在も知らなかったが、ネットで見た絵はまぁ普通だった。
 可もなく不可もなく。
 それなりに商業受けしそうなイラストを描いていた。
 他には同人界隈ではそこそこ有名らしい絵師――とは言っても私は知らなかった――が2人いた。
 この2人も男だ。
 もう少し名前のあるイラストレーターが参加していると思っていたから、かなり期待外れだった。
 でも、明日になれば別のメンバーが合流するということだから、そちらに期待するとしよう。
 残りは私と同じくらいの歳の女が2人。
 この2人は私と同じ参加者らしいからイラストレーター志望なのだろう。
 私と違って妙に垢抜けた格好と化粧をした普通の女、という印象。
 主催者のギリィとは顔馴染みなのか、すでに打ち解けている風ではあった。
 ホテルの大部屋に集まって簡単な挨拶と自己紹介という、私にとっては苦痛なだけの時間が終わり、何故か知らないがその後は乾杯となる。
 この手のイベントに参加したことが無いから、まぁ、そういうものなのだろう。
 ひどく無駄な時間に感じられたが、私以外の者たちは当たり前のように乾杯を始めたから、せめて形だけでもと合わせておく。
 一応、主催者は商業で活動しているプロなのだから、最初くらい顔を立ててやろう。
 と思ったのだが……
「ちょっと、これお酒じゃないの?」
 口の中に広がる不快な味と匂い。
 慌てて口の中の液体を吐き出すと、グラスをテーブルに戻す。
「私、未成年なんだけど……」
 参加フォームにも年齢を書いたはずなのに手違いだろうか?
「え? ウーロンハイなんてお茶と変わらないって」
 私の横に座っていた主催者のギリィが馴れ馴れしく近づいてくる。
 気に触る距離感だったが、まあいい。
 どうせイラストを見てもらうつもりだったから。
「それじゃ早速だけど、私の描いたイラストを見て意見を……」
「ああ、そんなの後でいいからさ」
 ギリィは私が差し出したファイルを無造作に手で払いのける。
 バサリ。
 床に落ち、散らばるイラスト。
「ちょっと……」
 何をするの。
 と文句を言う間も無く、
「それより、もっと楽しい話をしようよ?」
 酒臭い息で顔を近づけてくる。
 別の男が床に落ちたイラストを踏みつけて通り過ぎていく。
 ああ、なるほど。
 彼らに悪意なんて無いんだ。
 そもそも私の描くイラストになんて興味が無いのだろう。
 あの変態たちだって、私のイラストを見てくれたのに。
 ここでは誰も見てくれない。
 彼らにとってイラストなんて人を集める口実に過ぎなかったという事か。
 クリエーターという言葉に酔っているだけの上っ面だけの存在。
 軽く、そして薄っぺらな人種だった。
 向こう側が透けて見えるほどに薄っぺらい連中。
 何がクリエーターズキャンパスだ。
 こんなの只の馴れ合いの飲み会じゃないか。
 私は騙されたのだ。
 その事をやっと悟った。
 無性に腹が立つ。
 何に腹が立つって、愚かな自分自身にだ。
 結局私もプロのイラストレーターという言葉に憧れていただけに過ぎない。
 自分を裏切った友人を見返すために、ただその為だけにプロになってみせると息巻いていた。
 だから短絡的にネットで見かけたこんな偽物に飛びついてしまった。
 フフフ。
 実に笑える話だ。
 この下衆な男たちと大して変わりはしない。
 私もまた薄っぺらな人間だった。
 全く愉快なくらいに不愉快だ。
 吐き気がするくらいに。
「……帰るわ」
「はぁ? なんで?」
「時間の無駄だから」
 立ち上がろうとした私の右手を、ギリィの手が乱暴に掴んだ。
「痛っ! 何をするの?」
 手を払いのけようとするが、相手の力は思いのほか強く、振りほどけない。
 この時になって、私は初めて恐怖を感じた。
 昼間、アサノに言われた言葉を思い出す。
『いい、男ってのはみんな変態なのよ! 変質者なのよ! アンタみたいないかにも大人しそうな可愛い女の子なんて、いつだって狙われてんの! ちゃんと自覚しなさい!』
 全く、その通りだった。
「ナツミちゃん。キミ、イラストレーターになりたいんでしょ?」
 下卑た男の笑みが迫る。
 ああ、不快。
 掴まれた腕が痛む。
 本当に、不愉快。
「だったら、俺たちプロのクリエーターと仲良しになるのが、一番手っ取り早いんだよ」
 言うことまでが下らない。
 ああ、呪われればいいのに。
 コイツも私も、みんな呪われればいい。
「……も無いくせに」
「え? なんだって?」
「こ、志も無いくせに、クリエーターを名乗るな。不愉快よ」
 クソ。声が震える。
 なんて情けない。
 こんな奴、怖くない……
 怖くなんてないはずなのに、身体が震え、まるで力が入らない。
「志……? なんだいそれ? クリエーターに必要なのは才能だよ、才能。チャンスを掴むのだって、立派な才能だよ? 特に女の子はその才能に恵まれてるんだからさぁ……」
 男は私の身体を意味ありげに見て、
「使わなきゃ、損だろ?」
 そう言って嫌らしく笑った。
 それは今日見た中で、一番醜悪な顔だった。
 生理的嫌悪感。
 そして恐怖。
「離して、呪うわよ……」
「そんなに怒らないでよ。いいじゃん、2泊3日もあるんだから仲良くやろうよ、ねぇ、ナツミちゃんさぁ」
「人の名前を気安く呼ばないで……」
 ギリィの手を振りほどこうとするが、相手は男だ。
 その力は想像以上に強い。
 強く握られた手首が痺れるように痛む。
 どうして他の連中はこの男を止めないの?
 飲みの席とは言え、この男の態度はあまりに失礼だろう。
 周りを見ると、他の連中は興味深そうにこっちを見ているだけだった。
 特に慌てている風でもない。
 むしろ面白がっている。
 ……ああ、そうか。
 そういう事なのか。
 ここは、そういう場所なのか。
 私一人が勘違いして、イラストレーターとして何かを得られると思っていただけなのか。
 本当に馬鹿馬鹿しい。
 だったら、もう何も遠慮はない。
 自由のきく左腕を伸ばして、テーブルの上に転がっていたビール瓶を掴むと、それを男の頭めがけて振り下ろす。
 テレビなどでよく見る攻撃だ。
 だが、見よう見まねでやった所で、そんなにうまく行くはずもなかった。
 ビール瓶は虚しく空を切り、そのまま手から滑り落ちて飛んでいってしまう。
「ちょっと、危ねぇな……怪我したらどうすんだよ」
 ギリィが不愉快そうな声を上げて、私をそのまま突き飛ばす。
 部屋の入り口の方へと。
 だが、それならそれで都合がいい。
 このまま外に逃げられる!
 確か入り口のドアはオートロックになっているだけで、中からならそのまま開くはずだ。
 荷物は部屋に置き去りになってしまうが、そんなものはどうでもいい。
 今は逃げるのが先だ。
 私の考えを察したギリィが追いかけてくる。
 だが、こっちの方が早い。
 もう出口は目の前だ。
 ドアノブに手がかかる。
 はずだった……
 が、私の手はドアノブを掴めない。
 ドアが勝手に開き、中に入ってきた誰かにぶつかってしまったからだ。
 え? 他にも仲間がいるの?
 入ってきた男に抱きとめられる形となり、これでは逃げるに逃げれないではない。
 私を受け止めた男は、しっかりと私の体を掴み離さない。
 絶望的な恐怖。
「おっと、大丈夫かぁい?」
 私を受け止めた男の声に、どこか聞き覚えがあった。
 え?
 でも、この声は……
「盛り上がってるところ、お邪魔するよぉ」
 私を抱きとめていたのは……『変態』だった。
 見覚えのあるジャージにサンダル履き。変態と書かれただらしないTシャツ。
 そしてその顔には……
「て、天狗?」
 そう、天狗の面をつけていた。
 何故かわからないが。
 真っ赤で、鼻の長い天狗のお面をかぶっていた。
 意味不明。
「な、なんだお前!?」
「ふっふっふ。俺は通りすがりの変態だよ」
 天狗の面をつけた男は見た通りの名乗りを上げた。
 そうだ。
 この東京という街では変態が通りすがるのだ。
 私はそれを知っている。
 私はこの男を知っている。
 私はこの変態を知っている。
 でもどうしてこの男がここにいるのか、それは分からない。
「ちょっとアンタ、どうやって入ってきたんだよ」
「このホテルのオートロックはなってないねぇ、こんなんじゃセキュリティなんてあってないようなもんじゃないか」
 その声は確かに尾張だった。
 でも、どうしてここに尾張が現れるのだ?
 その意味が分からない。
 意味は分からないが、尾張のその声を聞いた瞬間、私の視界が大きく滲んだ。
 ……不覚だ。
 この変態の姿を見てホッとする事があるなんて、半日前には思ってもいなかった。
 これが安心感というものか? 
「お、尾張……? どうしてここに?」
「まったく、名前だけのクリエーターって奴等ほど始末に負えない連中はいないと思わないかい?」
 部屋の中を見回して、尾張が憮然とした口調で言い放つ。
「は? 何言ってんだ、アンタ。そんな変な格好して俺たちを脅かしてるつもりか? っていうか不法侵入だろうが!」
 突然の乱入者――しかも変態――に、男たちが色めき立つ。
「女の子を酔わせてその気にさせちゃうってのは大いに結構。俺もよくやるからね」
 ちょっと待て、よくやるのか!?
 まあ変態だから無理もないが……
「だがね。酔ったらその気になるって事は、酔わなくたってその気になるっていう大前提を忘れちゃいかんよ。それがプレイの基本ってやつだろ?」
 訳のわからない理論だった。
 まぁ、変態だから仕方ないか。
「ちょっとアンタ、人の部屋に勝手に入ってきて何わけわかんないこと言ってんだ? 怪我する前に出ていった方がいいぞ!」
「おいおい。そんなに凄まないでくれよ。怖くて、俺の息子も萎縮しちゃってるよ。……えっと、君がこの会の代表の片桐くんだね?」
「な、なんで俺の名前を知ってるんだよ!?」
 ギリィが上ずった声で尾張に詰め寄る。
 片桐だからギリィというわけか。
 名前まで薄っぺらいとは見上げた物だ。
「いやぁ、ネットっていうのは便利だよねぇ。ちょっと調べただけで、簡単に知りたい情報が手に入っちゃうんだからさ。あ、ところで5歳下の妹さん、無事に大手保険会社の内定が決まったみたいでおめでとうさん」
「ちょ、ちょっと待て! どうして、そんなことまで知ってるんだ!?」
 それまで虚勢を張っていた片桐の目に、明らかに怯えの光が宿る。
 人は本能的に異質な存在に恐怖を覚える。
 そして目の前の変態は、明らかに異質な存在だった。
「さぁて、どうしてだろうねぇ」
 尾張は韜晦するように首を傾げた。
 いくらネット社会とは言え、そんなに簡単に個人の情報が手に入るはずがない。
 でも、だとしたらこの男はいったい何者なのだ?
 そもそも、オートロックで施錠されているはずのこの部屋にどうやって入り込んだというのだ。
 何もかもが謎だった。
 この変態の正体を知っている私ですら不可解なのだ。
 その正体を知らない男達にとっては、それは不気味なくらいに怖い脅威に感じられたに違いない。
「まぁ、別に君たちがどこで何をしようと勝手だけどさぁ」
 尾張が一歩前に出る。
 その威圧感に押されて片桐が一歩下がる。
 尾張は床に散らばった私のイラストを拾い上げた。
 一枚一枚、丁寧に拾い上げる。
「でも、もしも俺の仲間にまで手を出すっていうのなら――」
 そう言って尾張は私の方を見た。
 今、当たり前のように私のことを仲間と呼ばなかっただろうか?
 どうして……
 今日初めて会ったばかりの私の事をそんな風に呼ぶのか。
 呼べるのか。
 その意味が分からない。
「俺は全力で君たちと戦うまでだよ」
 尾張はジャージのポケットからスマホを取り出すと、その画面を片桐に向けてみせた。
 私の位置からはそこに何が表示されているのかはわからない。
「君を社会的に抹殺する手段なんて山のようにあるんだからさ」
「な……」
 呆然と尾張の持つスマホの画面を見つめている片桐。
「ネットっていうのは、ある意味で警察よりも怖いよ。この意味、分かるだろう?」
「お、俺の個人情報を勝手に盗んだのか!? お、お前がやっている事こそ犯罪じゃないか!」
「ああ、そうだよ。それが悪いかい?」
 悪びれる事もなくあっさりと認める尾張。
 片桐と尾張とでは明らかに役者が違った。
 人間としての格が違いすぎる。
 ちょうどその時、遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる音が聞こえてきた。
「あ、そうそう。このけしからんパーティの計画は、もう警察の方に通報してあるからさ。逃げるなら早い方がいいと思うよぉ?」
 尾張の言葉に男たちは本格的に慌てだした。
「お、おい。警察はやばいって」
「ギリィさん、逃げた方がいいっすよ」
「お、おう。て、天狗男、覚えておけよ」
 男たちは一斉に部屋を飛び出していった。
「はっは。クリエイティブのカケラもない捨て台詞だねぇ」
 一緒にいたはずの女の子たちもいつの間にか消えていたから、彼女たちにも後ろ暗い所があったのだろう。
 まぁ、明らかに未成年なのに飲酒をしていたから警察に関わるのは嫌だろうし。
 どいつもこいつも下らない連中だった。

 ――そして誰もいなくなった部屋で、
「さてと……」
 天狗の面を外した尾張の表情は厳しかった。
「お、怒っているの?」
「いや、怒っちゃいないさ。何事もなくて、まぁ、良かったよ」
「ええ……何事も無かったわ」
 なんともいえない沈默が続いてしまう。
「あの、あなた、もしかして私を……」
 助けに来てくれたの?
 でも、何故?
 聞きたい事は山ほどあるのに、言葉が出ない。
「俺はただ、君の忘れ物を届けにきただけさ」
 尾張が私に差し出したのは2冊のファイル。
 一冊は、いま拾い上げたファイルで、もう一冊は凶月の設定画のファイルだった。
 ジャッジメントセブンの事務所を飛び出した時に置いてきてしまったものだ。
「え……?」
 今更そんな物を私に返されても困る。
 こんなのは無知で何も知らなかった私の黒歴史だ。
 ただ誰かに憧れて、勝手に描いただけの意味のない落書きに過ぎない。
「こんなもの、今更いらないわ。好きに処分してくれればよかったのに……」
 私がそう言い放つと、その時、初めて尾張は怒ったような表情で私を見詰めた。
「これは君の作品だ。君が魂を込めて描いたものなんだろう? 俺達に幻滅するのは勝手だけどさ、それを描いていた時の自分まで否定しちゃいけないよ。それじゃ君が描いた作品に対して、あまりにも不誠実すぎる。自分で自分の想いを踏みにじるのは、作り手として最低の行為だ」
「え……」
 この男からそんな事を言われるとは思ってなかった。
 ただの変態だと思っていた男から、そんな当たり前のことを教えられるなんて……
 そんなの、ずるいだろう。
 反則だ。
 尾張から受け取ったファイルがやけに重く感じられる。
 自分が描いた作品に対して不誠実……か。
 あぁ、確かに私は最低だ。
 この男の方が、よっぽど私の絵に対して誠実に対応してくれたのだから。
「……でも、どうしてこの場所が分かったの?」
「あの後、クリエーターズキャンパスとかいうのをイルカに聞いてみたら、あまりいい噂を聞かないって言うもんだから気になってちょっと調べてみたのさ。そのファイルも返したかったしね」
「そう……」
 きっと、そのために随分と無茶をしてくれたのだろう。
 それはさっきの片桐とのやりとりをみれば分かる。
「あと、イルカがさ……ああ、君には斑鳩と言うべきかな」
「やめてよ。その名前は二度と聞きたくないわ」
「はっは。とにかくあいつがさ、このイラストをえらく気に入ったみたいでさ。これこそまさに凶月の世界観だと絶賛してたよ。でも、君を怒らせてしまった以上、残念だけどこのイラストは返すべきだろうってさ」
「…………」
 そうか。
 彼が認めてくれたのか。
 実際にはイルカ2号とかいう変な名前だったけど、あの斑鳩が認めてくれた。
 思っていた結末とは違うけど、でも目的は達成できたという事か。
 それだけでも今回の上京に意味があったと思いたい。
「ま、アサノは君の絵を見て曲を作り始めちゃったからさ、絵を変えることになるって言ったら、そんなの有り得ないって、しこたま殴られちゃったけどね……あぁ、まだ痛いよ、ホント」
 たしかにさっきより傷が増えているような気がする。
 相変わらずご苦労な事だ。
「それじゃ、厄介なことに巻き込まれるのはごめんだから俺は消えるけど……俺達の基地は24時間いつだって開いているからな」
 そう言い残して、尾張は私の前から去っていった。
 天狗の面を後ろ手にぶら下げて。

† † † † † † †


 時刻は夜の11時を過ぎていた。
 あの後、しばらくホテルの前で待っていたけど、特に警察が来る気配はなかった。
 尾張が警察を呼んだというのはどうやらハッタリだったらしい。
 ついさっきもサイレンを鳴らしたパトカーが目の前の通りを猛スピードで走り去っていったが、ここに停まる気配はない。
 どうやら東京という街では、いつでもパトカーが走っているらしい。
 ホテルの部屋で聞いたサイレンの音も、関係のないものだったという事か。
 となると、もうここには用はない。
 クリエーターズキャンパスは当然だがこのまま消滅するだろう。
 主催者である片桐たちが逃げたのだから当たり前だ。
 この調子ではあらかじめ振り込んであったお金が戻ってくるとは思えない。
 おそらく連絡先にメールしたところで返事など来ないだろう。
 でも、そんなものはどうでもよかった。
 愚かな自分への勉強代だと思えば納得もできる。
 あんな奴らに腹をたてるくらいなら、愚かな自分自身に腹を立てた方がよっぽど健全だ。
 お金以外に被害が無かったのが何よりの救いだろう。
 それもこれも、あの変態のおかげだというのは分かっている。
 それに、警察沙汰にならなかったのも今思えば、それで良かったのかもしれない。
 この件が実家の両親の耳に入れば、高校卒業後に上京してデザイナー専門学校に入学するという進路計画もきっと白紙になってしまうだろうから。
 あの変態がそこまで考えて行動してくれたとは思えないけれど、結果的には助かった。
 それにしても。
 ……はあ。
 問題はこれからなのだ。
 私の手元にあるのは、3日後の夜に出発する深夜バスの復路のチケット。
 あとは僅かばかりのお小遣い程度の現金。
 もともと、クリエータズキャンパスのホテルが私の宿泊場所であり食事の場だったのだ。
 だが、それが失われてしまった。
 もしかして、ホテル側に事情を話せばそのまま部屋を使えるのかもしれないが、どうせ私の名義で借りられていないだろうし、下手をすれば警察沙汰にならないとも限らない。
 出来ればそれは避けたかったし、そもそもあの場所に戻るなんて死んでも御免だ。
 とはいえ、どうしよう。
 深夜の東京の片隅で、私は途方に暮れていた――

† † † † † † †


 それから1時間後。
 私は再び自問自答していた。
 どうして私はまた此処にいるのだろう?
 と。
 場所は、深夜の浅草の一角。
 目の前には、ジャッジメントセブンと書かれた扉。
 結局、ここに戻ってきてしまった。
 さっき、あんな酷いことを言って飛び出した私が、どうして受け入れてもらえるのだろう?
 そんな虫のいい話があるはずがない。
 でも、足は自然とこの場所に向かっていた。
 右も左も分からないこの東京で、私に行ける場所なんて此処しかなかった。
 でも。
 やはり此処は私が来るべき場所ではない。
 そんな事は分かっていた。
 カバンからとりだした黒いファイルを見つめる。
 凶月の設定ファイル。
 これはこの場所に置いていくつもりだった。
 こんな素人の描いたイラストが何かの役に立つなんて思わないが、この絵を本当に気に入ってくれたのだとしたら、それはやはり少し嬉しかったから。
 少なくとも、ジャッジメントセブンの人たちは、私の絵を見てくれたから。
 その事には感謝している。
 玄関脇の郵便受けにファイルを入れようとしたところで、おもむろに扉が内側から開いた。
「え……?」
「なんだい君、ウチになんか用かぁい?」
 扉の隙間から現れたのは、できればもう会いたくない顔だった。
 会いたくない?
 いや、違う。
 合わせる顔がない、と言うのが正しい。
 昼間、あんな事があって。
 さっき、あんな事があって。
 どんな顔をしてこの男に会えばいいというのか。
 どんな顔をして……
 せめて世話になった礼と、先ほどの失礼を詫びてここを去ろう。
 そうするのが正しい判断だろう。
 でも、私の口から漏れたのは全く別の言葉だった。
「他に行くところがないの……だから、助けてよ」
 この時、私はどんな顔をしていたのだろう?
 多分、ひどい顔をしていたに違いない。
 尾張は少し驚いた表情をしていたけど、お馴染みのだらしない笑みを浮かべると頷いた。
「中でアサノとイルカも待っている」
「え……? こんな時間なのに?」
 もう日付が変わろうかという時間だ。
 それなのに、なぜ?
「言っただろ? 24時間いつだって此処は開いているって」
「尾張……」
 さん。
 と、心の中で付け加える。
 面と向かって敬称を付けて呼ぶなんて今更無理だし、多分、必要ない気がしたから。
 この尾張世界という男は、見た目も言うことも明らかに変態なのに、何故か私を不快にさせない不思議な安心感を持っていた。
 ああ、だから私はまた此処に来てしまったのか。
 悔しいが、認めてやろう。
 この男の変態は、多分、照れ隠しのようなものなのだろうから。
 尾張世界。
 この男は、信用できる志を持った変態なのだろう。
「それにほら、やっぱり男2人だったら、女も2人の方が何かと楽しいじゃないか?」
 前言撤回。
 やはり変態は只の変態だった。
「……あんな事件に巻き込まれたばかりの私に、よくもまぁ、そんな事が言えるわね? 呪い殺すわよ」
 呪いを込めた視線で睨みつけてやる。
 本当に呪われればいいのに。
「はっは。笑ってそう言えるくらいには立ち直ったようだねぇ」
 愉快そうに尾張が言う。
 笑っている?
 この私が?
 そんなはずがないだろう。
 今だって、最低最悪の気分だというのに。
 相変わらず、この男のいうことは分からない。
「ちょっと、尾張! さっきの七罪って子、帰って来たんでしょ? さっさと中に入れてあげなさいよ。っていうか、アタシもうお腹空き過ぎて気が狂いそうなんですけど!」
「ブギョフー! アサノ! お、落ち着くのだ! 何故、我輩を殴る!?」
「はあ? アンタを殴るのに理由なんかいらないでしょうが! っていうか、そもそもアンタの詐欺行為があの子を怒らせたんじゃないの? ちゃんと反省しなさいよね!」
「わ、分かっておるなりよ! 我輩、海よりも深く反省しておるから!」
 中から聞こえてくるのは相変わらずの騒がしさだった。
 騒がしいのは嫌いだ。
 でも、今はその騒がしさが少しだけ心地よくもある。
「ちょっと、七罪、アンタいるんでしょ! 早く入ってきて、ピザ食べるわよ! ピザ! アンタが帰ってくんのを待っててやったんだから、感謝しなさいよね!」
「あの……これはどういうこと?」
「アサノたちはクリエーターズキャンパスの事なんて何も知らないのさ。ま、俺も知らないけどね」
「え?」
「これ以上、黒歴史を増やすことはないだろ?」
 嫌な事を言う。
「なにはともあれ、とりあえず、メシだ」
 そう言って尾張はさっさと中へと入っていってしまう。
 この後どうするかは自分次第だと言わんばかりに。
 無理に私を中に招き入れようとはしなかった。
 それは変態なりの心遣いなのかもしれない。
 フフ。
 そうだ。
 だって、これは私が自分自身で決めなければいけない事なのだから。
 自分の意思で決定し、行動しなければ何も起こらない。
 だったら、私は……
 その一歩を踏み出そう。
 自分の意思で。
 なぜなら――

 私の名は結城七罪。
 七つの罪を背負いし暗黒の絵師。

 なのだから。

「ようこそ、ジャッジメントセブンへ。七罪」
「な、七罪センセーのクリエイティィィィブな魂は既に我輩が受け取っておるぞ……というか、騙してしまって申し訳ない」
「っていうか七罪、アンタ帰ってくんの遅いわよ。心配するでしょうが!」
 中では変態な男と、中二の奴と、残念な女が待っていてくれて……
 当たり前のようにそこにいてくれて……
 当たり前のように声をかけてくれる。
 当たり前のように私の名を呼ぶ。
 そして、当たり前のように席が一つ空いている。
 馬鹿じゃないのか、こいつら。
 心からそう思った。
 本当に馬鹿みたいな連中だった。
 だから私は精一杯、自分らしい不敵な笑みを口元に浮かべて、こう言ってやったのだ。
「……待たせたわね」
 と。

(始)