2周年記念ショートストーリー
「俺達の世界は始っている。」は始っている。
作/森田直樹(RED)
世間一般的には、日曜日っていうのは休日である。
もちろん職業によっては、日曜日に働いている人もたくさんいるだろうけれど、僕のバイト先であるゲーム開発会社『ジャッジメント7』は完全週休二日制だと、アルバイトを始める前に言われた気がする。
気がするのだけど……でも多分、気のせいだったのだろうな。
そもそも、7人しかいないスタッフのうちの2人が、事務所に住み込んでいるような会社だ。
仕事と私生活の区別が出来ないような人たちに、そんな常識が通じるはずがなかった。
だから――
『零時くん。今日、基地に来るときにコンビニで人妻倶楽部の最新号を買ってきてくれないかい?
表紙は和服姿の熟女が縛られてるやつね』
なんていうメールが、当たり前のように日曜日の午前中に届いたりする。
このツッコミどころ満載のメールの差出人は、バイト先の社長である尾張さんだ。
きっと尾張さんは、今日が日曜日だってことが分かってないのだろう。
ずっと事務所で寝起きしているから、曜日の概念ってものが欠如してしまったのに違いない。
だってもし今日が日曜日だと分かっていたら、流石にそんなメールを僕に送って来るはずがないだろうから。
というか、今日が何曜日であろうとアルバイトの僕に、成人誌を買ってこいなんて気軽に言わないでほしいんだけどな。
しかもかなりマニアックな内容だし!
それをコンビニで買う僕の身にもなってほしい。
僕は尾張さんとは違って、ごく普通の平凡な大学生なのだから『人妻倶楽部』なるいかがわしい雑誌になんて、まるで興味がないんですよ!
……いや、まるで興味がないっていうのは言い過ぎか。
そりゃ、ちょっとは興味ありますけどね。
ほんのちょっとだけど。
なんて事を考えていると、再び僕のスマホがメールを受信する。
見るまでもなく差出人は尾張さんだろう。
『それから今日は日曜日だから、浅草寺に出店が出てたら、焼きそばも頼むよ。
君の分も買っていいから、4つくらいね』
前言撤回。
今日が日曜日だってことを思いっきり認識しているし! この人は!
それなのに、僕が当たり前のように事務所に行くのを前提でメールしてくるって、どれだけブラックなんですか!?
ブラックジョークだとしても真っ黒すぎて笑えない。
そもそも僕はアルバイトといっても、きちんとシフトが決まっていて、時給でバイト代が払われるような、いわゆる一般的なアルバイトではなく、完全に月額固定なのだ。
シフトが決まっていないから、出社するのもしないのも、その日の都合で決められる。
これは、大学に通いながらアルバイトをする上ではかなり魅力的な条件だった。
ただ、魅力的な話には落とし穴もしっかり用意されていた。
バイトを始める時に言われた「暇な時に来てくれれば良いからね」なんていう尾張さんの甘い言葉を鵜呑みにしたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
だってその『暇な時』って言うのが、尾張さんが『暇な時』だなんて思わなかったからね。
そしてこの尾張さんという人には、割と『暇な時』が多いらしく、こうして気軽にお声がかかるという次第だ。
つまり、労働条件としては他のスタッフとなんの変わりもない、ただ単に給料の安い社員みたいな扱いなのである。
みんなは僕のことを『アルバイトディレクター』と呼ぶが、待遇はどう考えてもアルバイトの域を超えていた。
特に先月なんて、1ヶ月の大半をジャッジメント7の事務所で過ごすという、自分でも信じられないような日々を送ったのだ。
他の人に話しても、たぶん信じてもらえないだろう。
労働なんとか局とかに話しても、もしかしたら信じてもらえないかもしれない。
そりゃ、もちろんゲーム開発の現場で働けるなんて、そうそう体験できることでもないだろうから、それはそれで貴重な体験をしたのかもしれない。
でもそんな前向きに考えられたのも最初の3日間だけだった。
そこから先は地獄の日々。
まさに『悪夢の6月』と呼ぶにふさわしい、思い出したくもない1ヶ月間だった。
今でも時々、夢に見てうなされるくらいなのだ。
軽いトラウマものである。
アルバイトを始めて最初の1ヶ月でそんな体験をしたのだから、月額固定のアルバイト代を時給換算したら、果たしてどんな金額になるのか、とてもじゃないけど怖くて出来ない。
そんな過酷な、そして常識はずれの環境が僕のバイト先なのである。
という訳で、僕にだって土日くらい、真っ当に休む権利があるはずだ。
学生が土日はアルバイトを休むというのはいささか本末転倒な気もするけれど、平日もほぼ毎日のペースでジャッジメント7の事務所に行っているのだから、土日くらいゆっくりと休ませてもらいたい。
そもそも一昨日の金曜日から土曜日にかけてだって、何だかんだとみんなに付き合って、事務所で過ごす事になってしまい、家に帰ってきたのは昨日の夜中。
もちろん事務所にいたからといって、ずっと仕事をしていたわけじゃないから偉そうなことは言えないけれど、ジャッジメント7のスタッフの相手をするっていうのは、それはそれでかなりの大仕事なのだ。
変態な社長や、中二の先輩や、混沌とした怖いデザイナーや、すぐに手が出る残念なサウンド担当という、くせ者の皆さんの相手をするだけでも相当に疲れる。
主に、精神面がすり減るのだ。
そんな訳だから、尾張さんのお願いも流石に断ろうと思ったけれど、よく考えたら今日は特に何も予定もないし、出店の焼きそばを奢ってもらえるなら事務所に行くのも悪くないかもしれない。
なんて思ってしまう僕も、相当、毒されてきているのかもしれなかった。
ジャッジメント7という劇薬に。
ということで――
『了解しました。お昼前には入れると思います』
と尾張さんに返信をして、僕はジャッジメント7の事務所がある浅草に向かうのだった。
休日の人混みで賑わう浅草駅を出て、仲見世通りから浅草寺の境内を抜け、ジャッジメント7の事務所がある『ひさご通り商店街』の入り口までやってくると、この辺りは随分と静かだった。
観光の中心地から外れ、一気に下町感が濃厚になるエリア。
アーケード型の商店街の中に入ると、さっきまで僕を焼き殺そうとしていたとしか思えない夏の日差しがグッと弱まる。
ここまで来るだけでも、すでに全身が汗でびっしょりとなっていた。
その理由は、焼きそばである。
この炎天下の中、浅草寺の境内をくまなく探したけれど、焼きそばの屋台なんてどこにも見当たらなかった。
尾張さんのメールだと、まるで日曜日には焼きそばの屋台が出ているような、そんな書き方だったけど、そんなことはなかった。
よく考えてみれば、お祭りや縁日じゃないんだから、そうしょっちゅう出店があるわけがない。
たぶん尾張さんも雰囲気で言ったんだろうな。
そういう人だから。
そんな訳で、本日の目的の半分である『屋台の焼きそばを奢ってもらう』という目標が消滅し、残ったのは『人妻倶楽部』なる成人誌を買うという、実にどうでもいいミッションだけとなってしまった。
なんていうか、実に不毛だ。
いったい何しにここまできたのだろう?
などと悲嘆にくれていても仕方がない。
焼きそばにつられた自分が悪いんだと諦めつつ、ひさご通りにあるコンビニ『ファインマート』へと足を向けようとしたその時だった。
「あ゛、あ゛、あ゛ぁぁぁぁあぁ~、があ゛ぁぁぁぁぁ~」
思わず耳を塞ぎたくなるような怪音が僕の耳に飛び込んできた。
続いて、目も塞ぎたくなるような光景が僕の目に飛び込んでくる。
それは、リズミカルにステップを踏みながら、足取りも軽く歩いているひとりの女性の姿だった。
その女性は、歩きながらクルクルとターンを決めたり、なぜかちょっとセクシー(?)なポーズで立ち止まってみたり、かと思えば腕を上に突き出したまましばらく静止してみたり。
何をしているのかはともかく、目を合わせちゃいけない相手であるのは間違いない。
それが自分のバイト先の先輩であれば尚更である。
思わず反射的に身を隠そうとしたが、
「あれ、零時じゃん? 何やってんのアンタ」
あっさりと発見されてしまいました。
「あ、アサノさん。お疲れ様です。どうしたんですか、随分とノリノリみたいですけど……」
「ちょ、ちょっと……もしかして見てたの?」
「そりゃ、見ますよ。目立ちまくってましたし、たぶん商店街の人も見てましたから」
遠巻きにですけど。と、内心で付け加える。
「あ、あれはアレよ! ちょっと準備運動というか、気合いを入れてたというか……」
あの変な動きが準備運動って、この人はこれから何を始めるつもりなのだろう?
それが何であれ、たぶんきっと、残念なことに違いない。
だって、残念が服を着て歩いているような美人のお姉さん。
それがこの早瀬アサノさんなのだから。
……本当に、何もしなければ綺麗でカッコいいお姉さんなのに。
どうして余計なことをしてしまうんだろう? あ、残念だからか……
「ちょっと零時。何よ、そのまるで可哀想な人を見るような目は!?」
おもむろに肩のあたりを軽く殴られる。
「あ痛っ! ちょっと! 目があっただけで殴らないでくださいよ! どこのヤンキーですか!?」
軽く殴られただけでもアサノさんのパンチはかなりの威力なのだ。
最近ではすっかり慣れてしまったけど、それはそれでどうかと思う。
「アンタが変な目でアタシを見るのが悪いんでしょうが」
どうやら僕が悪かったらしい。
「あー、はいはい。僕が悪かったです。すみません。……それでアサノさんは、どこかにお出かけなんですか?」
「そ、そうよ。悪い? っていうかそういうアンタこそ、こんなとこで何してんのよ?」
「尾張さんに呼び出されて、これから事務所に行くところなんです」
その呼び出された理由まではとてもではないが言いたくなかった。
「はぁ? せっかくこんないい天気だってのに、基地くらいしか行く所がないなんて、本当に残念な青春を送ってんのねぇ、アンタ」
今度はアサノさんが可哀想な人を見るような目で僕を見る。
ジャッジメント7の『残念女王』と呼ばれるこの人に残念って言われると、本当に残念な気がしてきてしまう。
ちなみにアサノさんの言う『基地』っていうのはジャッジメント7の事務所の事だ。
基地なんて言うとちょっとカッコいいけど、その実態は古ぼけた3階建てのオフィスビル。
その中には、尾張さんの居住スペースがあったり、仮眠室があったり、シャワー室があったりと、会社というには生活感がありすぎる場所なのだ。
スタッフのみんなは『基地』と呼んでいるが、正直、僕は恥ずかしくてそうは呼べない。
そもそも、先月はその『基地』が僕たちの『墓地』になりかけたのだ。
連日の修羅場に、仮眠室がさながら死体安置所の様になったあの地獄は、いまだに記憶に新しい。
「僕の青春のことは放っておいてください! ……あれ、でも今日はユウノさんと一緒じゃないんですね?」
アサノさんといえば、妹のユウノさんのオマケと言われるくらいに、いつも一緒に行動していることが多いのだ。
「ユウノなら基地にいるわよ。なんか変態に手伝いを頼まれたみたいでさ」
もちろん『変態』って言うのは言わずもがなの尾張さんのことである。
一応、ジャッジメント7の代表なのに、その威厳は皆無と言っていいだろう。
「あ、ユウノさんは事務所にいるんですね!」
「ちょっと零時、なにそのラッキーって顔は。アンタ、ユウノに変なちょっかいを出したら、大西洋に沈めるわよ!」
「太平洋じゃなくて大西洋なんですね。なんだかえらい手間がかかりそうですが……」
「とにかく沈めんの!」
「わ、わかりましたよ。もちろん、変なちょっかいなんてしませんから安心してください!」
そもそもそんなことをする度胸なんてありませんから。
「本当にぃ……?」
「本当です! っていうか、どこか行くところじゃなかったんですか?」
「おっと、こんなことしてたら遅れちゃう遅れちゃう。そんじゃね、零時」
「あ、はい。行ってらっしゃいです」
小走りで去っていくアサノさんを見送る。
その足取りは、相変わらず残念なステップでノリノリだった。
きっと何か楽しいことでもあるんだろうな。
でも、そのステップはともかく、怪音にしか聞こえない鼻歌は是非やめていただきたい。
アサノさんの、残念を通り越した音痴な歌声は、ちょっとした迷惑騒音行為だから、せっかく浅草に遊びにきた観光客の人達に申し訳ないんですよ。
心の中で、アサノさんの歌声で迷惑を被る観光客の皆さんに詫びつつ、僕はコンビニに向かうことにした。
ジャッジメント7御用達のコンビニ『ファインマート』に入り、雑誌売り場の隅にある成人誌のコーナーを眺めるが、人妻倶楽部なる雑誌は見当たらない。
「どうやらまだ入荷していないみたいだな。うん、無いなら仕方ない」
それはそれで、ちょっとラッキーだった。
さすがの尾張さんも、入荷してない雑誌を買ってこいという無茶は言わないだろう。
ホッとした拍子に床を見ると、和服姿の人妻が縄で縛られた表紙の成人誌が、まだ配送用の紐で縛られたまま積まれているのを発見してしまった。
なんて言うかもう、いろいろと縛られすぎだろう。
最近はこの手の成人誌がコンビニの店頭から姿を消しつつあるが、さすがは土地柄といったところか。
あるいは常連客である尾張さんの為に、わざわざ仕入れているという可能性が無くもないけれど。
とにかく人妻倶楽部はそこに存在していた。
そりゃそうだよな。
焼きそばの屋台はともかく、あの尾張さんが成人誌の発売日を間違えるはずがない。
でもまぁ、無理して買わなくてもいいよね。
わざわざお店の人に紐を解いてもらうのも悪いし、そもそも僕が欲しい訳じゃないのだから。
というか、それをコンビニの店員さんにお願いするのは、さすがに難易度が高すぎる。
尾張さんには、まだ入荷していなかったと言えばそれで良いだろう。
人妻倶楽部も焼きそばも手に入らなかった時点で、何のためにここまで来たのかはちょっと分からなくなってしまったけど……
でも、さっきのアサノさんの話では、ユウノさんが事務所にいるみたいだし、それはちょっとラッキーかもしれない。
ユウノさんは、キワモノ揃いのジャッジメント7において、唯一、普通と言ってもいい女の子だ。
色々と残念な姉のアサノさんと違って、ユウノさんはしっかり者だし、気がきくし、何と言っても可愛らしい女子高生なのだ。それだけで正義である。
もちろん僕にとっては先輩なのだけど、それでも一番話しやすい相手であることには違いない。
まぁ、ちょっと天然さんなところもあるけれど、そんなところも含めて魅力的なのだ。
だからといって、アサノさんに大西洋に沈められる様な真似ができる根性もないけど、今日はせっかくの休日なんだから、ユウノさんと楽しくおしゃべりして、適当な時間に家に帰ってもバチは当たらないだろう。
うん、そうしよう。
そんな事を考えていると、
「あれ? れーじくんだー。なんだ、れーじくんもファイマにいたんだねー」
当のユウノさんの声がすぐ後ろから聞こえてきた。
振り返ると、いつも通りのセーラー服姿で、いつも通りの空色の髪で、いつも通りのドキドキするくらいの距離感で、ユウノさんが僕のすぐ後ろに立っていた。
そんな僕の足元では、二重に縛られた和服姿の人妻が寝そべっている。
なんていうか、非常に気まずい。
「あのねー。れーじくんがなかなか基地にこないから、ゆーのが世界さんのお買い物をたのまれたんだよー。ゆーのも欲しい物があったから、ついでだしねー」
えへん。と、得意そうに胸を張るユウノさん。
その圧倒的なまでにボリューミーな胸が、僕の目前で大きく主張する。
ありがとうございます!
思わず心の中で感謝の意を述べたものの、ちょっと気になることを言わなかっただろうか?
「あの……尾張さんの買い物ってまさか?」
「えーっとね、ひとづまくらぶって本みたいなんだけど、どれかな? れーじくん分かる?」
尾張さん! あなた、女子高生になんて買い物を頼んでるんですか!?
そもそも成人向けの雑誌を、セーラー服を着た、明らかに女子高生のユウノさんに、売ってもらえるはずないじゃないですか!
そんな事もわからない大人なんですか?
と思ったけど、たぶんそんな事もわからない大人なんだよな、尾張さんは。
そして、そんな尾張さんの無茶苦茶なお願いを、あっさりと聞き入れてしまうくらいに天然なのだ。このユウノさんは。
「うーん……ゆーの、よくわからないから間違えたら大変だし、店員さんに聞いちゃおっかなー」
「いやいや、間違えなかった場合の方が大変ですから!」
「でもでも、世界さんが大至急たのむって言ってたから、きっと、すっごく楽しみにしてると思うんだよね」
そりゃまぁ、そうでしょうね。
わざわざ日曜日の朝に、僕にメールをしてくるくらいですから。
っていうか、事務所からコンビニなんて、とても近いのだから自分で買いに来ればいいのに。
どうせ暇なんだろうから。
と、内心で尾張さんに対して毒づいていると、いつの間にか目の前からユウノさんが消えていた。
どうやら店員さんに声をかけに行ったらしい。
「……あのー、すみませーん! ひとづまくら……」
「あああああああああああ!」
とっさにユウノさんの言葉を遮る僕。他にどうしろって言うんだ?
「うわぁ、どーしたの、れーじくん? いきなり大きな声出したりして。コンビニの中で大きな声を出したら、他のお客さんにめーわくになっちゃうよー」
「そ、そうですね、すみません。でも、尾張さんのお使いなら僕がやりますので、ユウノさんは自分の買い物を済ませちゃってください! ほら、もともと僕が頼まれていたお使いですから、大丈夫です!」
「そう? じゃ、世界さんのお買い物はれーじくんにお任せして、ゆーのはかき氷のシロップをみてくるよー」
そう言って食品コーナーの方へと向かうユウノさん。
あ、危なかった……
まさに、間一髪である。
とにかくこんな危険な買い物に、彼女を巻き込むわけにはいかない。
それこそ、アサノさんに大西洋に沈められてしまう。
尾張さんだけじゃなく、確実に僕も沈むことになる。
それだけは避けなければならない。
とはいえ人妻倶楽部をゲットするには、まずはこの縛られた状態から解き放つ必要がある。
……はぁ、仕方ない。
近くで商品の整理をしている年配の男性店員さんに、声をかけることにした。
「あ、あのーすみません。こ、この雑誌……ええっと……人妻倶楽部……とかいうのを買いたいのですが……その、紐を解いてもらってもいいですか?」
「ああ、お兄ちゃん悪いねぇ」
気さくにそう言って、雑誌の束の荷造り紐を解き始める店員さん。
でも、かなり頑丈に縛られているようで、なかなか紐が解けない。
なんとも言えないいたたまれない時間だけが過ぎていく。
「い、いやぁ、会社の仕事で急に使う事になっちゃいましてね。
ホント、ここにあって良かったなー。これで上司に怒られなくてすみますよ。
それにしても、このコンビニは資料価値が高い書籍も扱っていて、実に素晴らしいですね。
うん、本当に頼りになるなぁ」
いったい僕は何を言っているんだろう?
人は心にやましい事があると、無駄に饒舌になると言うが、心にやましい事が無くても饒舌になるのだ。
例えば、他人に頼まれた自分の趣味ではない成人誌を買う時とかにね。
しばらくすると、人妻倶楽部を縛り付けていた紐が解き放たれた。
「はいよ。おまたせ、お兄ちゃん」
「あ、どうもすみません。助かりました。あはははは」
店員さんが渡してくれた雑誌を奪うように受け取り、慌ててレジに並ぶ。
とにかくユウノさんに見られる前に支払いを済ませて、ここを立ち去らなければならない。
結果的にユウノさんを、コンビニに置き去りにする事になってしまうが、ここは涙を飲んでそうしよう。
というか、この雑誌が入ったビニール袋をぶら下げて、ユウノさんと一緒に歩けるほど僕はタフじゃない。
だが残念なことに、休日のお昼だけあって、レジはそこそこに混雑していた。
ソワソワとした落ち着かない気持ちでレジに並ぶ。
手に持っているのはちょっとした危険物だ。
これをユウノさんに見られるわけにはいかない。
「ちょっとあなた、そっちのレジが空いたわよ」
後ろに並んでいた女性にそう声をかけられて、空いたレジに向かうと、そこにもまた試練が待ち構えていた。
どうして、こういう時に限って、レジの担当の人が若い女の子だったりするんだよ!
しかもどう見てもユウノさんと同じ年くらいの学生さんだし!
いつもはおばちゃんかおっさんなのに!
かといって、人妻倶楽部を抱えたまま、後ろに並んでいる女性にレジを譲る勇気もない。
こんなマニアックな雑誌を抱えて振り返るとか、もう無理ですから!
それにあまりにも挙動不審すぎる。
よし、こうなったら男らしく、コソコソしないで堂々と行くしかない。
こういうのは変に隠そうとする方がカッコ悪いからね。
「お、お願いします」
そう言いつつも、最低限のマナーと保身の為に、裏返しに雑誌をレジのカウンターに載せる。
しかし、予想通りといいますか、当然といいますか、裏表紙だって、とても若い女の子に見せられるような代物じゃありませんでしたよ、はい。
ある意味、具体的な内容の写真と煽り文句の広告で、表紙よりもひどい。
「……い、いらっしゃいませ」
レジの女の子が、若干引いているのが声だけでもわかる。
そりゃそうだろう。日曜日の昼間っから、堂々と買う類の雑誌じゃない。
しかも、他の買い物と一緒とか、ついでとかじゃなく、単品買いのガチな客だ。
もちろん、このコンビニで取り扱っている雑誌なのだし、僕はれっきとしたお客さんだ。
それがたとえ人妻倶楽部だとしても、僕には買う権利がある!
でもこの場合、どう考えても10:0で悪いのは僕です。
そもそも、本当に悪いのは尾張さんなんだけど、きっとあの人なら、お金を払うついでにこの本の素晴らしさとやらを、この店員さんに話して聞かせたりしかねない。
そう考えれば、今ここに立っているのが僕で良かった!
むしろ僕は、この店員さんを変態の魔の手から救った勇者じゃないか!
もしかしたら逆に感謝されたりして!
なんて事を考えていたら、知らずのうちに笑みを浮かべた危ない人になっているし!
い、いかん。落ち着け、僕。
「あの……1814円になります」
「え!? そんなにするんですか!?」
思わず、素で聞き返してしまった。
「は、はい。すみません! ごめんなさい!」
なぜか店員さんに謝られてしまう。
いえ、こちらこそごめんなさい!
しかし、さすがはマニアックな内容だけあって、値段の方もなかなかにお高い。
雑誌なんて、せいぜい500円くらいだと思っていたから気軽に引き受けたけど、そんなに財布にお金入っているのか?
ここでお金が足りないとかなったら、店内のATMでお金を下ろして、改めてレジに並ぶという「もう、なんの罰ゲームなの?」ってくらいに恥ずかしい状況になってしまう。
慌てて小銭をかき集めるという、非常にみっともない行為に専念する事になる僕。
「ちょっと、早くしてくれないかしら? まったくレジに並ぶ前にお金を用意してないとか、常識をうたがうわね。呪われれば良いのに……」
すぐ後ろに並んでいる女性が、不機嫌なのを隠そうともしないでブツブツと文句を呟いている。
はい、もう既に呪われています。ありがとうございます。
なんとか小銭をかき集めて、ギリギリ1814円を揃える事ができた。
本当に奇跡的にギリギリだ。
「あった! 1814円、ありました! ありましたよ!」
やった! これで人妻倶楽部が買える!
思わずガッツポーズの僕。
いや、そこまで本気でこの本が買いたいわけじゃないんだけど、ここまで頑張ったんだから、せめて買って帰りたい。
最後は予想外の金額で、少しテンパってしまったけど、僕だってアルバイトとは言え、一応は社会人の端くれと言えなくもない。
だから、こんな時のための『魔法の言葉』をちゃんと知っている。
「あの、領収書をください。ジャッジメント7で!」
これこそ、いざという時の裏技的なテクニックだ。
この言葉を唱えることによって、
領収書を切る = 仕事で買いました = つまり、これは僕の趣味ではありません。
という暗黙のルールが発動する。
仕事だったらしょうがないよね。だって仕事なんだもん。
実に大人らしい、スマートな対処法といえるだろう。
「ちょっとバイトさん。そんないかがわしい雑誌を買うのに、会社の名前で領収書なんて切らないでもらえるかしら? まるでウチが変態会社みたいじゃない。というかこの期に及んで領収書とか、どれだけ待たせるつもりなの? 本気で呪い殺してやろうかしら」
すぐ後ろから、何やら文句を言う女性の声が聞こえてくるけど、もう僕の耳には届かない。
とにかく一刻も早くこの場を立ち去りたい!
人妻倶楽部と共に逃げ出したい!
「あ、あの、すみません! 領収書はいりませんから! 袋もいりません!」
可愛らしい店員さんから人妻倶楽部を奪い取る様にして、僕はファインマートを飛び出したのだった。
走るように……というか、むしろ全力疾走で一気にひさご通りを駆け抜けて、事務所に飛び込む。
と、とにかくミッションは完了だ。
息を切らしながら事務所2階にある開発室に入ると、ニヤニヤ顔の尾張さんが出迎えてくれた。
「おお、零時くん。君がくるのを待ってたよぉ」
「尾張さんが待ってたのはコレでしょう?」
そう言って、握りしめたままの人妻倶楽部を尾張さんに突き出す。
当然、尾張さんはすぐにそれを受け取ると思っていたのだけど、どうしたわけか呆然とした表情で僕の顔を見ていた。
「あ、あの……どうかしましたか?」
「…………」
今まで、あまり見たことないくらい難しい顔の尾張さん。
「おいおい、零時くん、こいつは『新妻倶楽部』じゃないか? 俺が頼んだのは『人妻倶楽部』だよ? ほら、よく見てごらん。これは和服じゃなくて浴衣だろ? まったく、こんな簡単な買い物もできないなんて、君にはガッカリだよ」
立派な大人とは思えないくらい、明らかに不機嫌な口調だった。
これには流石の僕もちょっとカチンとくる。
「はあ? 新妻だって人妻じゃないですか!? どっちでもいいでしょ?」
「おい、ちょっと待ちたまえ! 新妻と人妻を一緒にする奴があるか!」
仕事中でも見せないくらいに真剣な顔で僕を咎める尾張さん。
なんていうか本気モードだった。実に面倒くさい人だ。
「それに、この新妻倶楽部ならもう通販で購入済みで、さっき届いたところだからね」
「だったら人妻倶楽部も、通販で買えばいいじゃないですか!」
「コンビニ売りの人妻倶楽部には、特別付録がついてるんだよ。どんな付録か知りたいかい? 知りたいだろう?」
「いえ、結構です!」
正直言って付き合ってられなかった。
僕がこの人妻倶楽部――もとい、新妻倶楽部を手に入れるのに、どれ程の苦労をしたと思っているんだ?
「なにはともあれ、せっかく買ったのだから、その新妻倶楽部は、君の個人的なコレクションに加えるといい。内容的には入門用にピッタリだから、決して損はしないよ」
入門用って何ですか!?
僕はそんな高レベルな大人の世界になんて、入門するつもりはありませんから!
いや、ちょっと待てよ? それ以前に今、この人なんて言ったんだ?
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、尾張さん! これの代金、僕は立て替えただけですよ? まさか払ってくれないつもりですか?」
「いいかい零時くん。俺たちはクリエーターだろ? 書籍やゲーム、CDやDVDと言ったクリエイティブな魂を刺激する作品を、自分の金で買うのは当然の事じゃないか。だってそれは、未来の自分への投資なんだからさ。他人に買ってもらったり、貸してもらったりした物から得た知識なんて、大抵は身につきゃしないんだよ」
「いや……なんか、すごく大切なことを言っているような気はしますが、それとこれとは話が別ですよね? 僕、別に新妻の知識を得たいとは思ってませんから!」
「だから未来への投資だよ、未来へのね」
頑として払わないつもりらしい。
なんていうか、最低な大人の対応だった。
とはいえ、間違って買ってきてしまった僕にも、全く責任がないわけではない。
かなり納得はいかないけれど、ここは僕が折れるのが大人の対応なのだろう。
「はぁ……もう仕方ないですね。まぁ、確かに人妻倶楽部よりは入門編っぽいタイトルですから、一応、これは勉強のためにとっておくことにしますけど……」
そう言ってそそくさと、自分のデスクの引き出しに新妻倶楽部をしまう僕。
うん、まぁ、いつ必要になるか分からないしね。持っていても損はないだろう。
ちょうど危険物を処理したタイミングで、ユウノさんが戻ってきた。
「あ、世界さーん。コンビニのおじさんが、れーじくんが間違った本を買って行っちゃったかもしれないって教えてくれたから、念のために買ってきちゃったんだけど良かったかな? もしダブっちゃうようなら返してくるけど、世界さんがいつも買ってるのは、これっていうからさー」
コンビニのビニール袋の中から、雑誌が入っているらしい紙袋を取り出すユウノさん。
それを受け取ると、おもむろに開けて表情を輝かせる尾張さん。
「おお、さすがはユーノ! まさにこれこそ人妻倶楽部の最新号じゃないか! 実にグレイトフルだ! さすがは我がジャッジメント7が誇る、万能アシスタントだねぇ。ちょっと、ちょっと零時くん。君も少しはユーノを見習いたまえよ。人妻倶楽部も満足に買ってこれないようじゃ、ここでのバイトは務まらないよぉ」
「いやいや、それってゲーム作りに関係のない能力ですよね!? っていうかそんな雑誌、よくユウノさんが売ってもらえましたね?」
「えへへー。コンビニの店長さんが、世界さんの分は売り切れちゃう前に、紙袋に入れて取っておいてくれたんだってさー。ゆーのが中身を見るのは、もうちょっと大人になってからだって言われちゃったけどね。あーあ、早くゆーのもひとづまくらぶが読める大人になりたいなー」
「はっはっは。あの店長は俺と同好の士だからねぇ」
満足そうに頷く尾張さん。
なんていうか、どっと疲れた。
思わずどさりと自分の席に座り込むと、
「ところでナンバーゼロよ。我々の命の糧である、屋台のヤキソヴァ! はどこにあるのだ?」
さらに疲れそうな相手が、すかさず駆け寄って来た。
イルカさんことイルカ2号さんだ。
この人も日曜日だっていうのに、当たり前のようにここにいるんだな。
まぁ、別にあまり意外ではないけれど。
「あ、イルカさんいたんですか? おはようございます。ちなみに焼きそばの屋台はありませんでしたよ」
「な、なぬ!? それではこの我輩の腹に巣食う、魔界の蟲供の飢えを満たす供物は、ナァァァッシングゥということなのか!? ヒショエエエエエエエエエ!」
イルカさんの奇声によって室内の温度が一気に上がった気がした。
もちろん、ただの気のせいなのだろうけど、クーラーを付けているはずなのに、全く涼しく無いという、実に迷惑な暑苦しさを放ってくれる。
「まぁ、お祭りでもないと、焼きそばの屋台は出ていないみたいですね。僕も食べ損ねてしまって、ちょっと残念ですけど諦めましょう」
「……そうか。ナンバーゼロに期待した我輩が、間違っていたということか。無から有を生み出すことができるお前であれば、そこに焼きそばの屋台があろうが無かろうが、必ずや焼きそばを手に入れて帰還すると、我輩は信じておったのに……」
「いやいや! そんな期待をされても、無い物は買ってこれませんから!」
「フ……かつて魔王の軍勢として戦った、焼きそばの錬金術師と呼ばれたナンバーゼロも、地に堕ちたということか」
「そんな神話の時代みたいな頃から、焼きそばってあったんですか? あと、焼きそばの錬金術師って、あまり役に立たなそうな前世の記憶を捏造しないでください!」
「時の流れは無情なり……」
意気消沈したイルカさんは、力ない足取りで自分の席へと戻っていく。
「仕方ない、ではこのジャンボチキン南蛮ベントォォォォォ! を大人しくいただくことにするなり」
「お弁当あるなら、それでいいじゃないですか……」
「白米と焼きそばという、炭水化物と炭水化物のコラァァボレェェェションこそが、休日の我輩のささやかな楽しみだったなりよ……フフ」
それはなんていうか、悲しいくらいにささやかな楽しみだった。
少しかわいそうな気もするが、とりあえず今は、これ以上事務所内の気温を上げないように、大人しくお弁当を食べていていただこう。
「それにしても今日は暑いねー。あ、れーじくん、れーじくん。かき氷食べる?」
「あ、いいですね。ぜひいただきたいです!」
クーラーが効いている事務所の中とはいえ、確かにかなり暑いし、こんな日にさっぱりしたかき氷だなんて、さすがはユウノさん、気がきくなぁ。
「よーし! じゃあ、今日は新開発のマヨネーズ&メロンに挑戦だよー! ちょっと待っててねー」
え?
なんだかとても不穏な響きのブレンドが、聞こえた気がしたけど……
でも、楽しそうに鼻歌を口ずさみながら去っていくユウノさんに、とても聞き返すことはできなかった。
その時――
『うっふ~ん♡ セカイ、またターニャのパソコンにいたずらをしたなー、あっは~ん、イタズラはダメよん♡』
やたらとセクシーな声が尾張さんのパソコンから聞こえてきた。
それもかなりの大音量で。
尾張さんがついに昼間から、この開発室で堂々とセクシー動画を見始めたのかと思ったが、どうも違うらしい。
「おやおやターニチカ。やっと気付いたようだね?」
『うっふーん♡ ボイスチャットをしたらターニャの声が、なんだかエロエロな感じになってるのだー、もう、いや~ん♡ どういうことなのだー? それは、ダメ~ん♡』
「ほほう。こりゃ、たまらんね」
尾張さんはいったい何してるんだ?
これはもしかして、ちょっとエロい感じのボイスチャットとか?
だとしたらセクシー動画を見る以上に、アウトじゃないのか?
ここにはユウノさんもいるんですよ!? 自分の部屋じゃないんだから、それはダメだろ?
流石にこれはやめさせなければと、慌てて尾張さんの席に駆け寄ると、鼻息を荒くした尾張さんが得意げな顔でこっちを見てきた。
「どうだい零時くん? 俺が新開発した自動エロエロボイスチャットフィルター『エンジェルボイス』の効果はすごいだろう? ターニチカの声がこんなにエロエロだよ」
ドヤ顔の尾張さん。
尾張さんがターニチカと呼ぶ『タチアナさん』というのは、普段は北海道にいるジャッジメント7のサブプログラマーを担当している女性だ。
僕はまだ会ったことはないけれど、ユウノさん曰く『とっても可愛い女の子』で『ロシア人の美少女』なのだ。
尾張さんとも対等に話し、研究所で働いているということは、年齢は僕よりもちょっと歳上のお姉さんで、いかにもロシア人美女(ついでにナイスバディ)であるというのが僕の想像だ。
「え? このボイスチャットの相手ってタチアナさんなんですか? ま、まぁ、すごいといいますか、どうでもいいくらいの技術の無駄遣いですね……」
声がいつもと全く違ったから最初は分からなかった。
普段の舌ったらずで少し子供っぽいタチアナさんの声が、年相応(たぶん)のどこか艶のある色っぽい声色になっているのだ。
声だけ聞いていると、こっちの方がいかにも『タチアナさん』っていう気がする。
僕のイメージ通りの大人っぽくて、少しセクシーな雰囲気だ。
ただ、声色だけじゃなく、会話の途中途中にセクシーなボイスが勝手に挿入されるから、聞いていてちょっと恥ずかしいのも事実。
まぁ、アリかナシかで言えば、アリなんだけど。
いや、でも流石にセクハラにも程があるだろ。
『セカイのウンコ、ウンコ、ウンコマーンなのだー! セカイなんてウンコをふんづけてウンコまみれの刑になるといいのだー! うふふ♡』
きっとフィルターの効果なのだろう、タチアナさんとは思えない下品な言葉で尾張さんを罵っている。
なるほど、これは中々にひどいプログラムだ。
『あはん♡ こんなフィルターが仕掛けられてるなんて知らなかったから、うふふ♡ うっかり、パーパとボイスチャットをしてしまったのだぁー、もう、か・い・か・ん♡』
「はっはっは! そりゃ、ユーリーには刺激が強すぎたかもしれないねぇ」
『笑い事じゃないのだー、あはん♡ パーパはソットーしてしまったのだぞー! おかげで、あらあら、もう終わりなの、ぼ・う・や♡ なのだー』
「ターニチカ、お前は今日から我がジャッジメント7のセクシー担当に任命してやろう!」
『く、屈辱的なのだー……もう、めちゃくちゃにしてぇん♡』
「はっはっは。悔しかったら、自分で解除するんだねぇ、ターニチカ」
『く、くやしいのだー! でも、それがクセになりそうよん♡』
「はっはっは。そうだろう、そうだろう」
尾張さん、すごく楽しそうだな。
確かタチアナさんって、北海道の研究所で働く、世界的にも有名な天才的なプログラマーのはずなのに、そんな彼女をまるで子供のようにあしらう尾張さんって、いったい何者なんだ?
「うへ、うへ、うへへへへ。セクシーボイスのターニチカに罵られるというのも、なかなか悪くないねぇ」
あ、ただの変態でした。
天才を上回る変態って、ある意味で怖い。
いや、普通の意味でも怖いんだけどね。
とりあえず、タチアナさんの大人対応に期待して尾張さんのことは放っておこう。
僕が再び自分の席に戻ると、ちょうどかき氷を乗せたお盆を持ったユウノさんが戻ってきた。
「はい、れーじくんお待たせー。ゆーのの新作かき氷、『オイスターソース&メロン』だよー。ごめんねー、マヨネーズがなかったからソースで代用したんだー」
「は、はぁ……」
マヨネーズがなかったら、ぜひともただのメロン味のかき氷にして欲しかったのですが。
どうしてもブレンドしないといけない理由でもあるのだろうか?
それにしても、真っ白なかき氷の上にかかっている、ドス黒いオイスターソースというのは、なかなかに食欲をそそらないものだった。
「い、いただきます」
なるべくソースがかかっていない部分を選んで食べよう。
とは言っても、ユウノさんの丁寧な仕事ぶりのお陰で、ソースがかかっていない部分はあまりないのだけどね。
「どう、れーじくん、おいしい?」
「そ、そうですね。なかなか個性的な味だと思います」
「そっかー。ゆーのはあんまり美味しくないかなー。気に入ったのなら、ゆーのの分もたべていいからねー」
「いえ! 自分の分だけで十分です!」
たぶん、自分の分も完食できないと思いますから!
しばらくユウノさんの個性的なかき氷に悪戦苦闘していると、さっきまでタチアナさんをおもちゃにしていた尾張さんが、こっちに向かってやって来た。
その顔には満面の笑みが浮かんでいて、嫌な予感しかしない。
「さて、そいつを食べ終わったら、ユーノと零時くんにミッションだ」
「ええ? またなんか買いに行かされるんですか?」
「何を言ってるんだい、ミッションと言ったら仕事のことに決まってるだろ?」
「え? 仕事するんですか?」
予想外の尾張さんの言葉に思わず聞き返してしまう。
「おいおい、まさか君は人妻倶楽部を買うためだけに、ここに来たわけじゃないだろ? いったいウチをなんだと思っているんだい?」
呆れたように僕を見る尾張さん。
その言葉をそのままお返ししたい気分だ。
「それで、仕事っていうのは何なんですか? もちろんゲーム作りに関係あることですよね?」
「無論だ。これより我々は、新世界ゴーグルの起動実験を行う!」
「起動実験! それは漢のロマァァァァン!」
無意味なポーズを決めてイルカさんが割って入ってくる。
ジャンボチキン南蛮弁当はもう食べ終わったらしい。
「はぁ、新世界ゴーグルの起動実験ですか? でもそれならちょっと前に試したじゃないですか?」
新世界ゴーグルというのは尾張さんお手製の、いわゆるARゴーグルだ。
「今回はより実践的な実験だよ。屋外でこの新世界ゴーグルが、期待値通りのスペックを発揮するかを検証するのだからねぇ。路上実験の舞台はズバリ、六区のメインストリートだ!」
尾張さんの手には緑色の、僕専用の新世界ゴーグルがあった。
「携帯の回線を使って、基地との通信ができるように改良しておいたよ。これで屋外でもこのゴーグルを使うことが可能だ。まぁ、バッテリーを搭載したから少し重くなってしまったけど、零時くんは若いし大丈夫だろう」
「ちょっと待ってくださいよ! もしかして、これを被ったまま六区を歩けっていうんじゃないでしょうね?」
「無論そのつもりだが、何か問題があるのかね?」
不思議そうに僕を見つめる尾張さん。
「問題といいますか、普通に恥ずかしいじゃないですか……」
「おいおい零時くん。君は自分の仕事がそんな恥ずかしいことだと思ってるのかい? 俺はこのジャッジメント7の代表として、実に悲しい気分だよ」
そう言って大仰に首を振る尾張さん。
確かに言っていることは間違ってないのに、尾張さんに言われると若干納得がいかないのは何でだろう? たぶん変態だからだろうな。
「別に全裸にヘルメット一丁で歩けってわけじゃ無いんだから、恥ずかしがることはないだろう?」
「それは恥ずかしい以前に、ただの変態ですから! 普通に捕まる事件ですから!」
「でもでも、新世界ごーぐるを被っちゃえば顔は見えないんだから、別にれーじくんははずかしくないんじゃないかなー」
「まさに、ユーノの言う通りだ」
「そりゃ、まあそうかもしれませんけど、一緒に歩くユウノさんの身にもなってくださいよ」
「えー、ゆーのは謎のますくまんと一緒に歩くなんて、ちょっとカッコよくてわくわくしちゃうけどなー」
実に前向きにノリノリなユウノさん。そうだ、この人は天然さんだった。
そんな状況を恥ずかしがるどころか、むしろ楽しんでしまうに違いない。
「流石はユーノだ。まったく零時くん、君も男なら、セーラー服の巨乳女子高生を連れて歩くなんていう、夢みたいな状況に心踊らないでどうする?」
そう言いながら尾張さんが僕の頭に、無理やり新世界ゴーグルを装着してしまう。
フルフェイス型の構造のせいで、一瞬、視界が真っ暗になるが、尾張さんがスイッチを入れて起動させたことで、外部カメラの映像が内蔵されたモニターに映し出される。
「そりゃ、こんなゴーグルを被ってなければ、嬉しいですけどね……っていうか、もしかしてこのゴーグルを着けたまま六区まで歩けっていうんですか?」
「そりゃ、より実践的な起動実験だからねぇ。なるべく詳細なデータを取りたいのさ」
はぁ……これじゃ、さっきの残念ステップのアサノさんよりも、悪目立ちしてしまいそうだな。
「れーじくん、なかなか似合ってるよー。悪の秘密結社のしたっぱさんみたいで、ぐっどだよ!」
「は、はぁ。どうもです」
っていうか下っ端なんですね?
まぁ、このジャッジメント7では、いちばんの下っ端ですから、それに関しては否定しませんけど、せめて仮面のライバルキャラくらいは言って欲しかったかな……
そして下っ端である以上、尾張さんの命令に従わざるを得ないのも事実。
尾張さんがその気になってしまったからには、拒否する方が面倒くさいし、そもそも不可能なのだ。
まぁ、ユウノさんも一緒なら、少しはやる気が出てくるのは確かだし。
「この新世界ゴーグルの起動実験に、我々のこの夏の活動の全てがかかっていると言っても過言ではない。しっかりと働いてくれたまえよ、零時くん」
そういってお気楽に僕の肩を叩く尾張さん。
「はいはい、わかりましたよ。それじゃ、ちょっと行ってきます」
「あ、れーじくん先にいっちゃダメだよ、ゆーのも一緒にいきまーす!」
「ユーノ! 今のはなかなかにデリシャスな言葉だ。75点をあげよう」
「おお、いきなりの高得点をげっとだよ!」
「はっはっは。さらなる高得点を目指して頑張ってくれたまえ!」
「尾張さん! ユウノさんを変なふうに煽らないでください!」
尾張さんに文句を言おうとする僕の手が、突然、ぐいっと引っ張られた。
「さぁ、れーじくん。六区までれっつごーいんぐだよー!」
ユウノさんに手を引かれて事務所を出発する僕。
外に出ると、ゴーグル越しに照りつける暑い夏の日差しを感じた。
陽炎でゆらめく浅草の街並みの上空に、眩しいくらいに晴れ渡った青い空が広がっている。
新世界ゴーグルに映し出された世界は、いつもよりも少し輝いて見えて、なんだか素敵なことが起こりそうで、ちょっとだけワクワクしてくる。
きっかけは尾張さんに頼まれた人妻倶楽部だったけれど、やっぱりここに来て良かった。
そんな風に自然と思えて、胸が少しだけ熱くなる。
まったく……これがジャッジメント7の魅力なんだよな。
2017年7月16日、日曜日。
午後1時38分。
こうして僕たちの新世界ゴーグルの路上実験が開始したのである。
それが、この夏の僕たちにとっての、忘れられない事件の始まりだなんて、もちろんこの時は知る由もなかったけれども――
(始)
【あとがき(というか、言い訳)】
ここまで読んでくれた方がいれば嬉しいのですが……
ということでオレオワ発売2周年です。
それなのに、いまさらプロローグ前のエピソード0的なお話で申し訳ないです。
あと、本当に内容が無くて申し訳ないです(それはいつも通りか)。
本当ならこの話、Vita版の発売に合わせて公開しようと思っていて、タイトルだけ決めた状態で1年間放置。
よし、それなら1周年に合わせて公開しようと、冒頭の数行を書いた状態でさらに1年間放置。
(実際は『JUDGEMENT 7 俺達の世界わ終っている。』を作っていてそれどころじゃなかったけど……)
さすがに2周年に何もないのも悲しいので、今度こそ書くぞ!
と気合を入れたのですが、2年間も放置してた(温めていた)理由が分かりました。
プロローグとの整合性を取るのが面倒だったんですね、僕。
例えば、七罪とは午後にならないとその日はまだ会っていないとか、タチアナはそもそも浅草にいないとか、なんか色々と面倒くさい!
でも今はブログもTwitterも、なんにもやってないので「森田生きてます」という主張を兼ねて書かせていただきました。
それに最近は、割と真面目なシナリオとか原作を作るお仕事が多かったので、その反動もあったのかもしれない(オレオワも真面目だけどね!)
中身は読んでいただいた通り、100%オレオワです。
それにしても、このショートストーリーを書いていて思ったのは「尾張世界ってすごいな」ということですね。
この人がいるだけで、本当にどうでもいいお話がいくらでも書けるのだから!
そんなこんなで、時々思い出したようにまた何か書くかもしれませんが、その時はよろしくお願いします。
何故かオレオワって半年ごとに謎のカウントダウンをするので、次は2.5周年でお会いするかもしれません。
ではでは。
2019年11月9日 森田(レッド・エンタテインメント)でした。